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(二) 鋸鍛冶「宮野鉄之助」について




T 初代 宮野鉄之助


 初代の「宮野鉄之助」は、6代目「宮野平次郎」の宮野元吉の2男、または4男との説もありますが、父の下で鋸鍛冶の修業をしました。長男が「宮野平次郎」銘を継ぎましたので、独立して「宮野鉄之助」と名乗ることになりました。最早現存しないと言われていたこの初代「宮野鉄之助」作と思われる両刃鋸が、「大工道具・電動工具の本物市場」ホームページに紹介されています。

宮野治光3

 それによると、表の首部分には 兼テ 宮野鉄之助 宝壽 花押 が刻され、裏の首部分にも 元祖 兼テ と刻しています。初代の使った花押は「でんでん虫」マークとも言われ、その後2代目やその息子たちが製作した鋸にも刻されました。


 初代「宮野鉄之助」が健在した当時は、「宮野平次郎」銘の方が高い評価を受けていました。



U 2代目 宮野鉄之助


 「宮野鉄之助」銘の名を高めたのは2代目で、明治34年(1901年)に三木市福井に生まれ、本名を遠藤政一郎と言いました。地元で鋸鍛冶を見習い、大阪に出て目立ての修業をした後に三木に戻り、初代「宮野鉄之助」に弟子入りしました。
宮野治光6
 大正12年(1922年)に鉄之助の長女一恵と養子縁組をし、宮野政一郎となりましたが、2、3年後に離婚ではなく、姓を遠藤に戻しました。昭和13年(1938年)には、その鋸製作の技量を認められて2代目「宮野鉄之助」を襲名しました。

 当時の2代目「宮野鉄之助」は刀剣鍛冶の修業も行い、昭和16年に帝国新作日本刀展で金賞を受賞しました。昭和17年頃には、名匠宮入昭平(後の人間国宝)らと共に刀剣造りの研究もし、昭和19年に総裁名誉賞を受賞しました。この時代、刀匠として「遠藤四方斎朝也」とも名乗っていました。昭和48年には、伊勢皇太神宮に新刀一振りを奉納しました。

宮野治光7
 このような刀剣造りと並行し、たたら製鉄法で自ら玉鋼を作り、刀剣造りの技術を活用して玉鋼で製作する鋸造りに精進を重ね、玉鋼の鋸を世に出し続けていました。そして、その製造工程を記録文や映画に残すなどして、三木金物の歴史にも大きく貢献し、2代目「宮野鉄之助 遠藤四方斎朝也」の名声は、一層高まりました。

 昭和51年には、芸術振興財団第1回吉田五十八賞の特別賞や兵庫県立文化賞を受賞、そして翌年には三木市顕功賞を受賞しました。その他にも多くの賞を受賞しました。そして、昭和61年頃引退し、その10年後の平成8年(1996年)にその名を惜しまれて、95歳で亡くなりました。

 2代目「宮野鉄之助」の鍛つ鋸には、玉鋼と普通鋼の鋸の2種類があります。玉鋼の鋸は、表の首部に一つ一つ違った切り銘がなされ、裏の首部には切り文字の製造年月日(記載されていない鋸もあります)と四方斎朝也作の切り銘と兼テの刻印があります。

 普通鋼の鋸は、安来鋼の白紙が使われているとか言われていますが、「宮野鉄之助」に大変詳しいある人によると、「蒸気機関車などのスクラップの中から、使えそうな鋼を目利きして、サンプルを試験」して使っていたそうです。鋸の表の首部には「登録商標 兼テ 宮野鉄之助 花押」が刻され、裏の首部には「兼テ」と刻されています。



V 2代目 宮野鉄之助の3人の息子たち


 2代目「宮野鉄之助」には3人の息子がいました。大正13年(1923年)生まれの長男は、姓を遠藤に戻す前に生まれましたので、宮野裕光と言い、次男・3男は、遠藤に姓を戻した後に生まれましたので、次男は遠藤公誉、3男を遠藤智也と言います。

 3人とも父の下で鋸鍛冶の修業をし、炉脇の横座に父が構え、3人が先手となり、揃いの衣装を着て息の合った槌音を響かせて鋸を鍛っていました。引退した父の後を継いでいた3人の息子は、やがて長男と次男は別の道を歩み、3男のみがその後も鋸鍛冶をしていましたが、しばらくして鋸を鍛つのを止めました。

 長男の宮野裕光は「宮野治光」という鍛冶銘で、次男の遠藤公誉は「宮野義光」という鍛冶銘で、3男の遠藤智也は「宮野智光」という鍛冶銘で鋸を製作しました。長男と次男は、鋸の裏の首部に「鋸製造所 宮野鉄之助 元祖兼テ」と刻し、3男は「宮野鉄之助 兼テ」と刻しました。関係者の話によると、この3兄弟の作と言われる鋸にも、偽物が多く出回っているとのことです。
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W 2代目宮野鉄之助の弟子たち


 2代目「宮野鉄之助」の弟子として、現在知られている鋸鍛冶に「廣田菊次郎」・「大西龍平」・「廣瀬義一」の3人がいます。

 廣田菊次郎は、全盛期の2代目「宮野鉄之助」と共に生きた弟子で、「彼の作品は非常に美しく、玉鋼の研究でこそ鉄之助に劣るものの、鋸の鍛え、そしてセンで仕上げる技術は鉄之助に負けずとも劣らない」と評されている弟子でした。

 大西龍平は、現在三木特産金物センターを経営している社長の父に当たります。

 廣瀬義一は、鉄之助の最後の弟子と言われ、平成15年に亡くなりました。現在、息子が小野市で刃物店を経営しています。



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