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(一) 東京鉋鍛冶 「佐野勝二」 について



 佐野勝二は、明治44年頃に新潟県与板市に生まれました。地元の小学校を卒業後、13歳で与板の鉋鍛冶田中五郎次に弟子入りし、鉋造りの修業を始めました。親方の田中五郎次は、越後の鉋鍛冶の名工と評された田中昭吾の父です。
佐野勝二 作 「兵部」鉋7
 6年間、田中五郎次の下で修業しましたが、19歳のときに、さらに鉋鍛冶としての技倆を磨くため、東京に出て来ました。一時兵役に就いたり、太平洋戦争で修業は中断しましたが、その後東京の多くの鉋鍛冶の下で働き、所謂「渡り職人」として鉋鍛冶の修業を続けました。修行先の親方には、尾島功大、渋木文明、山崎春吉などがいました。

 やがて、昭和30年に独立して東京滝野川に仕事場を設けました。鉋が専門でしたが、彫刻用のノミや小刀も鍛えました。「兵部」銘は、江戸時代の後半に郷里の与板で有名であった「兵部ノミ」にあやかったとも言われています。しかし、登録商標はしませんでした。 佐野勝二 「兵部」鉋 刻印

 刃物は、高温に赤めて鍛造する方が早く容易に仕上がるので、とかく鍛冶職は数多く造るために高温作業をしたくなります。しかし、そうすると鋼は死んでしまう恐れがあります。大工道具鍛冶の名人・千代鶴是秀は、高温ではなく、金床の上に低温処理した鋼をおいて伸びるな伸びるなと金鎚を振り下ろしていたと聞きます。佐野勝二も「刃金(鋼)は、低温でできるだけやさしく、素直に扱わないとだめだ」と言っていたそうです。だから佐野の鍛えた鉋や刃物の鋼はよく切れたのでしょう。

佐野勝二 作 「兵部」鉋6  また佐野は、「刃物は切れ味だけが勝負だ。飾っても無駄だ」との固い信念を持っていました。佐野のこの言葉は、「あのじいさんの頭には、シャッチョコ立ちしてもかなわない」と頭が上がらなかった千代鶴是秀だけに装飾性が許されるのを認め、千代鶴是秀風を模倣する当時の道具鍛冶に対する痛烈な批判とも受け取れます。

 滝野川に作業場を設けてから5、6年後、高校を卒業した息子・勝が、父の下で鉋鍛冶の手伝いを始めました。しかし父は息子に仕事は教えない、息子は仕事では親も関係なく敵みたいなものと言って憚らない凄絶な親子関係でした。なまぬるい生き方をしている人間には、、まさに度肝を抜かれる親子関係でした。

佐野勝二 作 「兵部」鉋5
 佐野の鍛つ鉋は、彼の風貌や性格から想像もできないほど丁寧な仕上がりで、良く切れた鉋刃は東京鉋の伝統を受け継いで薄く、鉋身の肉のスキ方も理想的な形で、台入れ職の人達にも仕込み易いと評判でした。

 しかし、昭和50年代に入ってしばらくして、長年に渡るお酒の飲み過ぎから、60代後半になった佐野は体調を崩し、息子の勝が火造りができないこともあって、鉋鍛冶を廃業することになりました。その後、「兵部」銘は佐野と取引があった新潟の問屋に移り、良く切れると評判の与板の鉋鍛冶中野武夫が鍛つようになりました。

 佐野が鉋鍛冶を廃業した後、佐野の鍛った鉋が再評価され、偽物が出回ったりし、それがインターネットで佐野勝二の鉋として一部で紹介されていることは残念なことです。



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