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(二) 山口介左衛門について



 胴付鋸の名工と言われた山口介左衛門は、本名を山口俊介といい、明治44年に鋸鍛冶をしていた父金治の子として三条の鍛冶屋町の天神前で生まれました。小学校を卒業するとすぐに父を手伝い、父の仕上げた鋸を問屋に持って行って、金銭に換えてくるのが俊介の日課の一つになりました。       

のれんと銘柄のない父の鍛った鋸は、無慈悲に問屋に買いたたかれ、有名な人の鋸は品質を見ずに高額で買い取られるのを目にし、子供心に口惜しさと腹立たしさの屈辱を味わいました。そこで、自分は誰にも負けないすばらしい鋸を作ろうと決心しました。


 やがて一人立ちして鋸を鍛つようになりましたが、この信念は一層強くなり、周囲の人たちから「鋸は良いものだが、少しは採算を考えた方がよいのではないか」との忠告も受けましたが、「自分の心を騙すことはできない」と言って信念を曲げることは決してありませんでした。


 太平洋戦争の戦況が厳しくなり、軍需工場に徴用に取られ、一時鋸作りができなくなりましたが、終戦により鋸作りを再開しました。しかし、父の代からの仕事場は人手に渡り、六畳一間の間借り生活からの再出発でした。


 良い鋼は手に入れたものの、火造りは知人の仕事場で、コミ付けや焼入れは別の仕事場で、荒削りなどは三,四軒の鍛冶屋を渡り歩き、仕上げは間借り先ですると言う状態で、貧乏と苦労の連続でした。


 こうして作った鋸も名が売れていないため、なかなか業界に認めてもらえず、相変わらず問屋に買いたたかれました。時には仲間の下仕事をし、自分の作った鋸に他の鍛冶職銘が入れられもしましたが、良い鋸を作ると言う信念は決して曲げませんでした。


 不自由な生活の中で、隣家との間に仕事場を広げ、荒削り・仕上げ・狂い直しが自宅でできるようになりましたが、火造りはまだ仲間の仕事場を借りて行っていました。早朝から夜の11時頃まで、食事も仕事場で取り、必死に努力しました。


 やがて、鋸鍛冶技術が認められ、山口介左衛門銘の鋸が高く評価されるようになり、とくに胴付鋸の名工として名が知られるようになりました。普通の胴付鋸は1寸(30mm)の幅に25枚から35枚の鋸目を刻みますが、介左衛門は40枚を超すものもありました。当然鋸目のアサリはほとんどありません。目立てをしたそのまくれだけでよいのです。


 昭和40年代の前半になって、厚意を寄せてくれる援助者によって、念願の火造りのできる自分の仕事場を建てることができました。ようやく誰にも気兼ねすることなく、自分の思い通りの良い鋸を鍛つことができるようになりました。


 そのような時期に、介左衛門の仕事場を訪れた2代目宮野鉄之助の長男裕光は、「山口さんは4人でなければできないことを、1人でしている」と称賛したとの話が残っています。宮野鉄之助鋸は、父と3人の息子たちで鍛っていたからです。


しかし、昭和49年5月に体調を悪くして入院し、退院することなく翌年の1月に薬石効なく他界し、賞には無縁の65年に渡る苦難の生涯を、しかし鋸鍛冶として誇り高く生きた人生を終えました。山口介左衛門の技術を伝承する人はいませんが、「胴付鋸の名工山口介左衛門」の名は後世に残っていくことでしょう。




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