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むすびに



 明治時代の中頃以降、会津刃物道具鍛冶は曾ての繁栄を失い、衰退の道を辿ることになったのですが、その大きな一因は、越後や東京の刃物道具鍛冶が明治20年代から洋鋼を使って切れ味の優れた大工道具を鍛ち始めたのに対して、明治時代の末頃まで玉鋼に固執し、時代の流れに乗り遅れてしまったからでした。

重延 裏金 
 昭和50年代終わりには、大工道具を鍛つ会津刃物道具鍛冶は、わずかな数の鋸鍛冶を残すのみになり、他の刃物道具鍛冶は消えて行きました。現在、会津相生町に鋸鍛冶として三代目中屋伝左衛門(五十嵐征一氏)が一人残るだけで、まさに会津大工道具鍛冶文化が消滅しつつあります。

 嘗ては江戸時代に、西に「播州三木」が、東に「会津」が、日本の大工道具鍛冶の一大拠点として存在していました。やがて東の拠点の会津から越後や江戸に、鋸・鉋・鑿などの優れた刃物道具鍛冶技術が伝播していきました。この会津刃物道具鍛冶の歴史の中で、江戸時代後期に並ぶものなしと言われた名工「重房」も出現しました。

重延 裏金刻印 以前より私は、江戸に伝播したこの会津大工道具鍛冶技術に興味を持っていましたので、京の都より遠い東北地方の会津に、なぜ大工道具鍛冶の一大拠点ができたのか、「重房」とはどのような刃物道具鍛冶であったのか、なぜ会津刃物道具鍛冶の銘の頭に「重」の文字が多いのか、などについて調べてみようと思っていました。

 幸いなことに、当店には「はじめに」のところで書きましたように、二代目「重延」作と思われる寸八鉋を所蔵していますので、この「重延」について会津刃物道具鍛冶の歴史の中で語ることによって、その思いをいま果たすことができて満足しています。

 書き上げたこの原稿も当店の「道具の歴史」欄に記載し、大工道具鍛冶の歴史の記録として後世に残したいと思います。



   平成22年9月吉日
   有限会社 スズキ金物店
     代表取締役 鈴木 俊昭




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