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(二) 名工「長嶺重延」



 「重延」は本名を長嶺喜好といい、明治28年に会津に生まれました。明治42年14歳のときに若林大八に弟子入りしました。大八が、30歳のときでした。大八は、近代刃物道具鍛冶の礎を造ったと評される「通し/重房」銘の若林猪之吉を祖父に持ち、その長男であった大助の長男に生まれた刃物道具鍛冶でした。

重延5 「重房」一門は、多くの優れた刃物道具鍛冶たちを育て上げ、彼らが独立するとき、頭に「重」を付けた銘を授けていました。会津刃物道具鍛冶というと、一般に鍛冶銘を「重某」と言いますが、その理由の一つはこれに由来しているとも指摘されます。

 明治10年代に輸入され始めた洋鋼を、明治20年代初めに誰よりも早く東京で使用して鉋を鍛ち、その切れ味に大工をうならせた名工「重勝」も、会津刃物道具鍛冶の出身でした。

 長嶺喜好も、大正7年に25歳で独立するときに、親方から「重延」銘を授けられました。独立した「重延」は、他の会津刃物道具鍛冶と同様に、大工道具ばかりでなく、桶屋道具・ナタ・切り出し小刀・包丁などいろいろ刃物を鍛っていました。このことは、会津の刃物道具鍛冶が鉋・鑿などの大工道具だけでは需要が少なくて生活ができないために、他の打刃物も鍛たざる得なかったことを意味しているようです。

重延刻印1
 「重延」の鍛った鉋は、鉋身がやや厚く、地金は釜地で、やや厚めの鋼は硬めに焼き入れ、よく切れると評判でした。この「重延」鉋の最大の特徴は、「重延」の銘を反転させて切っていることです。

 この理由には諸説があって、包丁などには普通に「重延」と切り、鉋には反転させて左銘の「重延」にしたとか、鋼の種類や高級作品のとき反転「重延」を切ったとか、また晩年になって反転させたとか言われ、定かでありません。

 昭和55年頃には、会津刃物道具鍛冶は、この「重延」と四代目「重道」と「重高」の三人になってしまいました。昭和57年には「重延」が亡くなり、弟子の娘婿の長嶺久二男が二代目「重延」を継ぎました。しかし、義父の初代「重延」が亡くなってから一ヶ月足らずのうちに、不幸にも二代目「重延」も亡くなる事態となり、残念なことに「重延」銘は途絶えました。



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