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(七) 二代目 千代鶴 太郎



 千代鶴太郎(加藤太郎)は明治40年千代鶴是秀の長男として生まれ、小学校時代の成績は大変優秀であり、細工も驚くほど起用でした。高等小学校卒業後、父の下で鍛冶職として修行を行いましたが、姉・玉の影響もあって文学書や哲学書などを読んだり、西洋クラシック音楽などを聞くなど豊かな感受性の持つ若者でした。昭和4年徴兵検査を受けて甲種合格でしたが、当時の制度で抽選によって兵役が免除されたので、彫塑に関心も持っていた太郎は父の承諾を得て多摩美術学校に入りました。こうして鍛冶職を本業として研鑽を積みながら、美術学校で彫塑も学ぶことになったのです。

 今まで切り出し・小刀など小物を主として鍛っていた太郎は、昭和5年の23歳頃から大工道具問屋の涌井精一と父の賛同の下、運壽銘の鉋を本格的に鍛ちはじめました。この当時、千代鶴是秀は是秀銘と藤四郎銘で鉋を鍛っていました。千代鶴運壽銘は涌井精一が登録しました。

 運壽銘は石堂家の由緒ある累代の譲り名でありましたが、十代目石堂が病臥していたのでその号銘を太郎に継がせようとしたのです。こうして太郎は千代鶴二世として、また刀匠の名門石堂家の縁者として名工の血筋を引いていることを世に明らかにすると同時に、その名を決して汚してはならない運命を背負うことになったのです。運壽銘の鉋は高い評判を博することになりました。

 このことが千代鶴家に思わぬ悲劇をもたらすことになったのです。太郎は美術学校で彫塑の勉強を続けたかったのですが、両親の意思を拒むことができずに2年で止めました。しかし父の鍛冶職を継ぎ、それに専念することに迷い、彫塑の勉強を強く望んでいたのでひどく苦しみ悩みました。そして昭和8年1月、太郎は伊豆大島の三原山火口に消息を絶つのです。28歳の若さでした。

 太郎の没後、千代鶴是秀の作風は磨きをかけたりなどしてより芸術性の高い作品になりました。また供養の意味から自ら運壽鉋を鍛えましたが、その後大泉の鈴木や戦後一時期延國も鍛ったり、また富山の金山その他の鍛冶職が代作しましたが、延國以外は千代鶴是秀が焼き入れと仕上げをしていました。

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