スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク


国弘

(十) 近代大工道具鍛冶の始祖 初代國弘と義廣 



 初代國弘(田中和多吉)は文政3年に生まれ、幕末に越後三条から江戸に出てきて鉋や鑿を主として鍛ちました。明治維新のとき49歳で、いまの八丁堀に住んでいました。七代目石堂より2歳上で、八代目石堂より25歳上でした。弟に四寸・五寸の大鉋を鍛つことを得意とする浅草田圃の義廣がいました。この兄弟は若いころ兵部銘で知られた越後の幸道のもとで修業したと伝えられています。

 義廣の鉋は穏やかな上品な作柄、兄國弘は気性も荒く鍛った刃物は鋭く切れ味は一等で、國弘は下削りの荒シコ、義廣は仕上げに向いていたと評されていました。

 初代國弘の功績は、幕末まで深い穴を掘るのに使った叩き鑿を、首の長さを短くして造作に適した押入鑿を創造したことと、また鋼を付ける部分がいままで刃丈の3分の2であったのを、刃丈いっぱいに鋼を付けたことです。この鑿のことを國弘型と呼びました。また鉋の頭の部分を國弘型と呼ばれるゆるやかな丸みをもった形にし、以後現在まで鉋はほとんど國弘型で鍛たれています。これらのことから初代國弘は近代大工道具鍛冶の始祖と呼ばれています。

 初代國弘は鍛冶銘を天野國弘とか天國弘と切り、二代目から四代目まで同様でした。弟の義廣は鉋に田圃義廣と銘を切りました。

 初代國弘には國道・國貞・早稲田の國義・三島の宗近・子の國行などの弟子がいて、一門は大工道具鍛冶界に君臨していました。弟子の中でも焼き入れ・仕上げなどのすべての点で父・初代國弘の良さを引き継いだ子の國行は特に優れた名工で、腕が立つと評された國道・國貞らを凌ぎました。しかし、わずか2年余りのみしか國行銘で鍛ったことはなく、初代國弘の代作もしたようですが、明治19年頃26歳で夭折しました。千代鶴是秀より15、6歳上でした。

 刀匠から野鍛冶、そして大工道具鍛冶へと転じた八代目石堂が特に模範としたのが初代國弘の作品であり、千代鶴是秀や九代目石堂も初代國弘の作品を敬い、多くを学び取りました。

 二代目國弘(田中國吉)は嘉永2年に生まれ、牡丹町に転居した後大正7年69歳で亡くなりました。三代目國弘は大正13年震災に遭い、世田谷の上馬に転居したの後、昭和20年に59歳で亡くなりました。二代目、三代目は初代の名声と恩恵を受けたものの初代に並び評されることはありませんでした。その後國弘家は鍛冶職をやめてしまいました。

←前ページ   このページのトップ   次ページ→

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved