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「怪物傳」の中で義廣について書かれているのは、七章 名工の苦心 二、鉋刃物師田中義廣 のところです。 |

名工義廣の鉋を持っているということは、大工の仲間の中で大変に誉れが高く、まさに垂涎の鉋であることを知った著者が、いったい義廣という刃物師はどのような人物なのであるうかと思い、浅草公園の右手、横に5階の見える柴崎町の住所を訪れて取材します。 |
取材したのは明治37年で、この時すでに初代義廣(仁吉)は明治29年に亡くなっていて、二代目義廣の長男義太郎も59歳で先頃亡くなり、孫の石太郎が三代目義廣として弟の仁志太郎と一緒に、祖父の名を落とさないように鉋鍛冶として励んでいる時でした。 |
なにか都合が悪かったと見えて、同家と親戚同様の間柄である70歳に近い佐藤米次郎老人に話を聞くことになります。佐藤老人は初代義廣の仁吉とは同国同村で、何十年の間、兄弟のように、親子のように付き合い、義廣のことはなんでも詳しく知っている人でした。取材した老人の話を要約すると、以下の通りです。 |

田中義廣は、越後国三条在の小池村に生まれ、本名を仁吉といい、父は孫右衛門で中規模農家でした。細工仕事が好きであったので、9歳のとき2里ばかり離れた与板の鍛冶屋に弟子入りしました。その年の冬、出雲崎へ抜ける5里ばかりのところに八幡の社があり、仁吉は雪の降る中その社へ裸詣りをして技倆の上達するのを祈る子供でした。 |
その翌年、技倆を鍛くのは江戸に限ると言って、江戸に出ました。10歳のときでした。そして、日本橋中橋に住む名の知れた鑿鍛冶・鈴田の定という人のもとで修業に入りました。20歳のときに年期を勤め上げ、1年のお礼奉公の後、結婚して下谷の西中町に所帯を持ちました。住んだ家は老人の父親の家作でした。2、3年そこに住み、八丁堀に移りました。 |
仁吉は不思議なほどに欲のない人で、いつもいつも良い鉋を鍛つに |
はどうしたらいいのかと考えてばかりいました。当時大阪の |
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の鉋 |
が大評判で、鉋は江戸職人には出来ないと言われていましたが、ついに本場の大阪を圧して、江戸鉋の名声が日本中に轟くようになったのは、義廣の力です。 |
義廣の名が上がり大評判になったのは、安政2年(1855年)の大震災の後からです。義廣の鉋は良く売れて、貯めて置けば土蔵の2つや3つ出来たと思いますが、欲のない義廣はそんなことを考えず、毎年貯まったお金を持って、身代の傾きかけた国元の父親に届けていた孝心深い人でした。明治になるまでは、いつも貧乏でしたが、それを苦にしませんでした。 |

家の紋はカバタミの花でしたが、職人の中の職人になるのだと言って、人の長になる縁起のいい上羽の蝶の紋に変えました。名を義廣としたのも、世に自作の鉋を廣めたいと言うことからでした。 |
義廣の製品は、製作を一切秘密にしていましたから、他人を弟子に取らず、家の者と親戚の者5、6人で作っていました。注文に応じられない評判でしたが、やたらに義廣の製品を世に出しては義廣の名がすたるとして、他人を弟子に決して取りませんでした。鋼は玉鋼の千草を使っていました。 |
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