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江戸刃物鍛冶の系統―「左久弘」系について



 初代「久弘」の後を次いで二代目となった柏木梅吉の息子、政太郎は本所相生町(現在の墨田区両国)回向院裏で問屋の「かかえ鍛冶」をしていました。しかし日露戦争後の不況下の大晦日、「久弘」銘の刻印をお棚の問屋に預けてお金を借りましたが返せず、それが借金の質に問屋に渡ってしまい、問屋から刻印の使用料を請求されました。

 困った柏木家は「久弘」銘を諦め、頭に「左」を乗せて「左久弘」として再出発することにしました。(※1参照)そして徐々に「かかえ鍛冶」から「誂え鍛冶」へと転換していきました。この「左久弘」銘は大正5、6年頃の非常に景気の良い時期に商標登録をしました。(※2参照)

(※1) 左久作宅にお伺いしたときに、三代目左久作の池上喜幸氏に、なぜ「右」ではなく「左」を頭に付けたのか、またそれにはどのような意味があるのかをお聞きしたとき、「本来、右と言う字も左と言う字も人を助けるという意味があります。しかし右には上から助けるという意味が含まれ、左には横から助けると言う意味が含まれている違いがあります。鑿鍛冶は大工さんを上から見下ろして助けるのではなく、横から助ける、つまり良い鑿を造って同じ目線でそばから助けると言うことで左の文字を頭に付けたと聞いています。」と説明を受けました。

(※2) これ以後、「左久弘」の弟子たちの銘の頭に「左」がつけられたり、「清忠」が浅草の水平屋の商標登録であるために、島村氏が他の問屋に鑿を渡すとき「左清忠」銘を打ったり、商標登録問題から「市弘」が「左市弘」銘になるなど、鑿・鉋鍛冶の中で「左」が銘の頭に付けられるようになりました。

「左久作」刻印 初代「左久作」の池上喜作(明治32年 富山県生まれ)は10歳のとき、東京四ツ谷の大工道具店加藤徳兵衛の紹介で、二代目「左久弘」(柏木政太郎)の弟子になりました。このとき左久弘家には初代の弟子を入れて10人いましたが、喜作は二代目の5番目の弟子でした。兄弟子には鑿鍛冶の達人「左久清」・「左久喜」がいました。また喜作より2歳年上の二代目の長男・市太郎も修行中でした。このころの東京の大工業界では、「鑿の左久弘」と高く評価され、「左久弘」銘で優れた名品が造られた時代でした。

 大正12年春、喜作は二代目から「左久作」銘を授かり、二代目の娘と所帯を持って東京の月島に独立しました。やがて二代目「左久作」になる長男の喬庸(大正13年生まれ)が昭和12年に父の下で鍛冶職の修業を始めました。
二代目「左久作」鑿
 柏木左久弘家は、その後、昭和10年に二代目政太郎、昭和15年には三代目市太郎を相次いで亡くし、「左久弘」銘は途絶えました。

「左久作」刻印2
 太平洋戦争後の昭和24年、東京の鑿鍛冶業界の指導者であった名工の初代「左久作」は、途絶えていた名跡「左久弘」銘を襲名し、四代目「左久弘」となりました。二代目「左久作」も鑿鍛冶の名工と評価され、初代を亡くした後は鑿鍛冶組合の会長や中央区伝統工芸士になるなど業界の指導者として貢献されました。(「語り伝えられた東京鑿鍛冶共同組合」を参照下さい。)

 現在、池上左久作家は、父である二代目の下で修業した長男・喜幸(昭和30年生まれ)が、三代目「左久作」として、新たに海外や西洋楽器用の刃物などの領域にも刃物鍛冶として場を広げ、東京月島で名工として江戸刃物鍛冶師の伝統を守り続けています。



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