スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク





(二) 明治から昭和時代



 明治時代になると、新国家の建設で砥石の需要が拡大し、新しい砥石山が次々に開抗しました。また、手作業であった採掘が、火薬やトロッコなどの導入により作業効率が向上し、産出も増大していきました。


明治10年の第1回内国勧業博覧会では、
[仕上砥・中砥]としては、愛媛・京都・神奈川・埼玉・兵庫・長崎・新潟・群馬・千葉・茨城・栃木・三重・愛知・静岡・山梨・滋賀・岐阜・長野・宮城・福島・岩手・青森・山形・秋田・石川・島根・岡山・山口・香川・福岡・大分・熊本の各県、そして[荒砥]としては、長崎・茨城・愛知・静岡・岐阜・長野・福島・岩手・島根・広島・和歌山・高知・福岡・熊本の各県の砥石産地が出品しました。その出品産地数は173ヵ所でした。これにより、明治初期の頃では、砥石産地が全国に渡っていたことを知ることができます。


また、明治時代に地場産業と発展した代表的な砥石名を上げると、以下の通りです。
長崎県の平島砥・笹口砥・対馬砥、熊本県の天草砥・備水砥、愛媛県の伊予砥、広島県の青砥、和歌山県の大村砥、兵庫県の但馬砥、京都府の合砥・青砥・門前砥・佐伯砥、福井県の常慶寺砥、愛知県の三河白・細名倉、岐阜県の美濃砥、群馬県の沼田砥・上野虎砥、栃木県の青砥・飛駒砥、茨城県の助川砥・大泉砥、新潟県の五十嵐砥、山形県の改正砥、宮城県の恵比寿砥、岩手県の雫石砥・夏屋砥などです。


明治時代の中頃あたりから昭和初期にかけて、砥石の生産は最盛期を迎えます。昭和の初期には、砥石の採掘現場が1,000ヵ所近くに増えたと言われます。


江戸時代は日本の人口が約3,000万人で一定していましたが、明治維新の頃は約3,300万人、太平洋戦争の頃には約8,400万人に増えました。明治19年の東京の人口は約112万人、大阪は約36万人、京都は約26万人でしたが、3年後の明治22年には東京は約139万人、大阪は約48万人、京都は約28万人に増えました。


この人口増加が主な一つの要因になって、木造建築が盛んになり、それと共に大工道具も、明治時代から昭和時代の前半、最盛期を迎えました。砥石の生産の増大と大工道具の隆盛とは密接な関係があります。砥石は、刃物道具である大工道具が主な使用元であったからです。


 しかし、大正時代の後半に、効率的な荒研ぎができる人造の金剛砥石が生産され、天然の砂岩荒砥は、次第に使われなくなりました、さらに、昭和30年代始め頃に、効率的な中研ぎができる人造中砥であるキング砥石や、高価であった天然仕上砥石に替って安価な人造仕上砥が出回りはじめ、建築刃物道具の刃研ぎは、次第に天然砥石から人造砥石に取って代わって行きました。  

昭和25年頃の主な天然砥石の産地として、佐藤興平論文「砥沢の砥石:地質と歴史」の中に、以下のような産地紹介されています。


荒砥として、千葉銚子の銚子砥・和歌山富田の紀州砥・長崎平島の平島砥の三件です。
中砥として、岩手県御明神村の志戸前砥・山形東小国村の前森砥・福島荒海村の滝ノ原砥・茨城多賀町の助川砥・茨城岩瀬町の大泉砥・栃木逆川村の荒内砥・群馬小坂村の上野砥・群馬砥沢の沼田砥と虎砥・富山東布施村の福平砥・愛知振草村の名倉砥・静岡大仁村の合掌寺砥・静岡稲梓村の米山砥・京都宮前村の宮川砥・京都宮前村の目透砥・愛媛伊予の伊予砥の18件です。
合砥として、愛知三輪村砥沢の三河白砥・京都梅ケ畑の鳴滝砥の2件です。


昭和30年頃から出現した木造建築用の電動工具の登場、建築のコンクリート化や建築工法の変化などが、砥石の使用に大きな影響を与え、砥石山の閉鎖が相次いでいきました。現在、天然砥石の採掘は、京都などで僅かに行われている状態です。





←前のページへ   このページのトップ   次のページへ→

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved