今まで曲尺の鍛冶師というと、土田一郎著「日本の伝統工具」で鋼製曲尺をはじめて製作したと紹介された江戸幕末期の越後三条の名工の中や九助、「道具曼陀羅」に紹介された江戸幕末期三木の名工で、壺ト銘の壺屋藤兵衛が知られています。
曲尺は、昔から三木でも作られていました。三木には、11代将軍徳川家斉時代の最晩年の天保6年(1835)に曲尺地および曲尺目切職人がそれぞれ8軒あったとの記録(村松貞次郎著「鍛冶の旅」)から、曲尺が盛んに作られていたことを推察できます。この三木の曲尺の名声を高めた人が壺屋藤兵衛です。
11代将軍徳川家斉時代の寛政年間の頃、紺屋をしていた藤兵衛の祖父三右衛門の家に泊まった一人の行者が、祖父に曲尺の製法を伝えて去りました。これにより祖父は曲尺作りを始め、子の吉兵衛も後を継ぎ、孫の藤兵衛の代に曲尺の角度・目盛・弾力性などに一大革新をして、壺ト銘の曲尺の名声を高め、この銘の曲尺をもっている番匠の賃銀が高かったとも伝えられています(村松貞次郎著「鍛冶の旅」)。
その後、藤兵衛は多くの弟子を育て、三木における曲尺製作に貢献しました。藤兵衛の子の伊藤治も父の後を継ぎましたが、明治44年三木に6軒あった曲尺鍛冶を集めた「播磨度器製造株式会社」が設立されたり、大正10年頃には曲尺鍛冶が山科の度器会社に移ったり、新潟三条に移ったりして、三木の曲尺作りは消えて行きました。
曲尺は、日本に伝来した当初、木製乃至竹製で作られていたと思われますが、いつの頃から鍛冶が鉄製の曲尺を作ったのかは定かではありません。ただ、鉄で作られることから鉄尺といい、曲尺の異称とも、また曲尺の一種とも言う鉄尺が、室町時代の後半の永正年間(1504〜1521)に京都の指物師又四郎が定めた又四郎尺(約30.258p)で作られ、大工職が主に用いたとのことから、この時期に鉄製の曲尺が作られたことは間違いありません。これが鉄製曲尺の出現時期であったかどうかは、資料がないため判定できません。
この鉄尺は、当初難波の鉄尺職人たちによって主に作られ、江戸中期以降全国に生産が広まり、その後越後三条が主要産地になって行きました。この難波の鉄尺職人の原器は、聖徳太子が大阪四天王寺を建立するときに作った物差しの写しであると伝えられていますが、真偽のほどは解りません。
三条における曲尺作りの歴史は、10代将軍徳川家治時代の後半から11代将軍徳川家斉時代の初期、天明年間(1781から1789)に鉄製で作られたのが最初ですが、この時の製作者は不明で、継続されませんでした。
その後、文化年間(1804〜1818)に鍛治町の小刀鍛冶木戸覚兵衛が鋼製の曲尺製作を試みましたが、完成できずに亡くなりました。
12代将軍徳川家慶時代の後半の嘉永年間(1848〜1854)に、三条の錺(かざり)職人高野久松が江戸に行き、真鍮製の曲尺製法を10余年の研鑽の後に習得して帰郷し、真鍮曲尺の製作を開始しました。
阿部藤右ヱ門は、その秘伝を習得して帰郷し、鍛冶町の宗村九助(天保3年/1832の生まれ)に伝授しました。こうして、三条でも鋼製の曲尺が作られるようになりました。宗村九助とは、中や九助銘で知られた鋼製曲尺を作った名工鍛冶師でした。
明治26年度量衡法が施行される頃には、三条の曲尺鍛冶師は20数名いたと言われます。その中で法改正により最初に製作免許を受けたのは、真鍮曲尺鍛冶師の川崎由次郎でした。その後、川口造吉や石田長次郎が製作免許を得て、三条の曲尺製作は活況になります。
しかしその後は、明治34年に越後度器製作合資会社が設立、それが改組され大正12年に三条度器株式会社となるなど、鍛治師の個人製作から工場生産に移行し、曲尺鍛冶師は次第に消えて行きました。
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