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《三木鑿鍛冶の名工「錦龍」》



錦龍2



はじめに



 兵庫県三木市の鍛冶の歴史は古く、大和時代まで遡ります。百済から来た韓鍛冶が三木に住み、鍛冶を行ったのが始まりと言われています。その後、この三木市が全国屈指の大工道具鍛冶の町になった契機は、三木城攻めの戦いで荒廃した三木の城下町を、豊臣秀吉が復興するために力をそそぎ、その結果大工職や鍛冶職の人達が、周辺の国から多く集まって来たことによると言われています。

 やがて三木で鍛られた大工道具の優秀さが、他国にも広く知れ渡り、さらに大工道具造りが盛んになって行きました。そして江戸・明治・大正・昭和・平成の時代を経て、今日まで大工道具鍛冶によって鉋・鑿・鋸などが造り続けられています。

 現在、三木工業協同組合に参加している鑿鍛冶は21社で、そのなかで名工として国から認められた鑿鍛冶の伝統工芸士として6名の人がいます。

錦龍3 この三木鑿鍛冶の長い歴史の中で、曾て、ひときわすぐれてた名工に「錦龍」という鑿鍛冶がいました。当時、「錦龍」組鑿は最高級品の組鑿で、普通の鑿鍛冶の5倍から10倍の値段がしたと言われています。当店にも「錦龍」の組鑿があります。昭和40年代後半に取引していた三木の利器工匠具問屋から、三木で一番の鑿鍛冶名工の組鑿が欲しいといって求めたものです。

錦龍4 「錦龍」は30年前にすでに亡くなっているので、現在業界でもあまりよく知られていなく、また多くの関係者が他界し、記憶から忘れ去られつつあます。今度はこの「錦龍」について当店のホームページに記載しようといろいろ調べ、詳しく知ることができました。そこで、所蔵の「錦龍」組鑿の写真とともに、「錦龍」について紹介し、記録として後世に残したいと思います。

 尚、「錦龍」のご息女である東京の金物店「カネワカ」社長夫人、三木の鑿鍛冶名工である5代目の宮脇正孝氏、三木の問屋(株)関忠会長の関忠行氏にお聞きした話、また三木市ホームページや神戸新聞WebNews 「カナモノガタリ」、伝統刃物工房ホームページなどを参考にさせて戴きました。
以下、敬称を略させて戴きます。


三木鑿鍛冶の名工「錦龍」 目次



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(一) 鑿鍛冶「錦龍」について (一) 鑿鍛冶「錦龍」について むすびに