今回は、星野欣也・平澤一雄論文『第1回国内勧業博覧会出品解説の内容から見た明治初期におけるわが国鍛冶技術の実情』を基にして書き上げましたが、これによって今まで知られていなかった明治初期の地方や東京に存在していた一部の鋸・鉋・鑿鍛冶、そして東京の釿・玄能・鑢鍛冶の人たちの名前を、知ることができました。
玄能は、銕(てつ)を玄能の形にし、両端を硝酸味噌と呼ばれている焼入れ用塗布剤(硝石・味噌・塩の三種を混ぜたもの)を塗り、水焼き入れしたものも出品されていますが、東京の玄能鍛冶が、軟鉄の両端に鋼を鍛接した作品を出品していたことがわかり、当時、玄能は軟鉄の両端に鋼を鍛接することが一般的であったと知ることができました。
この玄能の両端に鋼を鍛接して作る方法は、6代将軍徳川家宣時代の正徳2年(1712)に、大阪の寺島良安が約30年の歳月をかけて編纂した百科全集『和漢三才図会』の上之巻第24百工具の中の「かなつち」の欄に、「鉄釘などを打つのに使う金槌は、頭に鋼を加えてこれを作る」という記述が、すでにあることから、江戸時代中頃の大工道具作りの先進地であった関西では、このような方法で作るのが一般化していたことがわかります。しかし、いつ頃からこの方法で金槌が作られるようになったのかは不明です。
なお、江戸時代後半になって金槌で鑿を叩くようになりましたが、それ以前は木槌で鑿を叩いていました(拙著『続・日本の大工道具職人』)。
両刃鋸の出現時期についても、大工職用ではなく、素人用鋸との説もありますが、明治10年当時かなり普及していたことがわかり、貴重な資料です。
ともあれ、『第一回国内勧業博覧会出品解説』は、明治時代初期の大工道具鍛冶の人たちを知る貴重な資料です。
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