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(一) 古代



 日本の古墳時代に鉄器の普及が始まり、多くの古墳から副葬品として鉄製の「刀子(とうす)」が出土します。最も古い鉄製の「刀子」の出土は、京都府などにある前期古墳である4世紀の古墳からです。前期古墳は、王族や大豪族の人たちが埋葬されましたので、副葬品として出土することは、当時はそれだけ「刀子」という刃物が希少品としての価値があったことを現しています。

また、青銅製の「刀子」が、縄文時代後期の山形県三崎山古墳から出土しています。この「刀子」は、約3000年前に中国大陸で作られたものと伝えられています。


 「刀子」とは、ものを切ったり、削ったりする片刃小刀の一種で、長さが15〜30p程度の大きさです。一般的には、「切出小刀」のように刃先が尖っていなく環頭形で、刃は斜め刃ではなく直刃です。今日の小型の万能ナイフのように使われたようです。

6世紀以降になると、広く使われるようになり、柄や鞘が豪華に装飾された「刀子」が現れます。この「刀子」は、紙が貴重品で木簡や竹簡が広く使われていた時代に、誤字を削って訂正するための消しゴムのようなものとしても使われました。戦う武器ではなく、主に文人・文官が使う文房具のような存在でした。正倉院宝物に、当時の「刀子」があります。


 「切出小刀」については、遺跡や古墳などから出土例はありません。正倉院にも所蔵されていません。「切出小刀」は、価値のないごく普通の民具であったために所蔵されなかったと思われるでしょうが、当時は鉄そのものが大変貴重品で、一般庶民はどんなものでも鉄製品をなかなか所有できなかった時代です。そのため、「切出小刀」はまだ存在していなかったと思った方がよいのではないでしょうか。



(二) 中世後期から近世



 この「刀子」は、室町時代末期から安土桃山時代の末古刀期という頃から、刀装具として刀の付属品のようになると推定されていると、愛刀家の外山登氏はインターネットのブログ「日本刀について:刀装具の小刀について」で述べています。


 「刀子」から「小柄小刀」というようになった小型刃物は、以後も武器ではなく、日常で使う万能刃物として使われたようです。短刀や匕首とは違います。

 江戸時代になると、大工道具を紹介した百科事典が世に出されるようになります。6代将軍徳川家重時代晩年の正徳3年(1713年)頃に刊行されたとされる『和漢三才図会』があります。その中の「第24 百工具」に、「小刀」という名称の小型刃物があります。その「小刀」は柄や鞘を付け、それらに装飾したりして、竹木を削り、紙を裁し、木工に使うのに便利と紹介されます。和名を「古加太奈」と紹介され、紹介された「小刀」の絵では、刃の先端が鋭く尖ってはいない丸味を帯びた直刃形の片刃で、今日の「切出小刀」という形態とは、まったく違います。


 9代将軍徳川家重時代の終盤の宝暦11年(1761年)に、大阪の船大工金沢兼光によって書かれ、明和3年(1766年)に刊行された大百科全集『和漢船用集』があります。その中の「巻第12 大工道具之部」の「小刀」の箇所に、「和名 古加太奈 大中小アリ 其刃 細キ者繰小刀ト云 又切出小刀アリ」と書かれています。「切出小刀」という記述が現れるのは、現在私が過去の古文書を調べた限りでは、『和漢船用集』が最初です。


 その形態は絵で表示されていませんが、記述から今日の「切出小刀」や「繰小刀」ように思えます。したがって、この頃の大阪では船大工がすでに使っていたことと思われます。しかし、「切出小刀」や「繰小刀」が、全国的に使われていたのか、いつ頃に出現したのかは、現在まだ不明です。


 また、ドイツの医師・博物学者であったシーボルトが、江戸時代後期の11代将軍徳川家斉時代中頃の文政6年(1823年)に来日し、文政11年(1828年)までの5年間滞在し、日本についての膨大な資料を収集し、ヨーロッパに持ち帰りました。そのときの資料に基づいて、『日本(NIPPON)』(1832〜1851)を刊行します。この著書には、収集した多くの大工道具も紹介されています。それらの中に「柄付繰小刀」1丁、握り鉄部分を藤で巻いたような「切出小刀」1丁、それに「幅広大型切出小刀」が1丁あります。

14代将軍徳川家茂時代の終盤の元治元年(1864年)に刊行された絵入り事典『道具字引図解』がありますが、この中には大工道具が紹介されていますが、「小刀」については何も記述されていません。


江戸時代後期に数人の宮大工棟梁が使った大工道具一式が残されていますが、どれも「切出小刀」や「繰小刀」は見当たりません。


 これらのことから、「切出小刀」は存在していたことがわかりますが、大工職や他の職人の人たちにとってあまり使う刃物道具でなかったのか、単なる刃物民具として思われて重要視されて来なかったのか、広く職人の人たちの間に普及していなかったのではないか、などと推察できますが、まだ明確なことはわかりません。



(三) 近代から現代



 いままで文字を書くには、墨と毛筆を使って書いていましたが、明治5年に始まった小学校教育では、鉛筆がまだ十分に普及していなかったために、当初は石盤に石筆で筆記していました。やがて、鉛筆が輸入されたり、国内生産ができるようになります。

 こうして明治時代の中頃から、鉛筆削りの文房具として「切出小刀」が愛用されるようになると、筆記具などの文房具について研究している野沢松男氏は述べています。これによって、いままで木造建築や木工、木彫、竹細工などの職人の人たちだけの刃物道具であった「切出小刀」が、広く国民の間に普及するようになります。

 明治時代の後期になると、折りたたみナイフの「肥後守」が兵庫県三木市で考案され、製作されるようになり、今度はこの「肥後守」が鉛筆削りに利用されるようになります。

野沢松男氏によると、昭和30年代にはほとんどの人たちが鉛筆削りの文房具として「肥後守」を使うようになります。「切出小刀」は、また以前のように職人の人たちが、主として使うだけの刃物道具に戻って行きます。




(四) 千代鶴是秀と「切出小刀」



 昭和時代になると、この単なる刃物道具であった「切出小刀」を、造形的に美術品のように創意工夫して製作し、気品のある芸術品の域まで高めた鍛冶職が現れました。大工道具鍛冶の大名人である千代鶴是秀です。彼は明治7年に生まれ、昭和32年に84歳で亡くなりましたが、その生涯において「切出小刀」の名品を数多く作りました。

 作った「切出小刀」に、自らタガネで達筆な文字を切り、作品銘や謂れや自分の銘を毛筆で書いた桐箱に納めました。「切出小刀」をこのようにしたのは、千代鶴是秀が道具鍛冶として最初です。

 千代鶴是秀は、太平洋戦争終戦以前にも「切出小刀」を作っていましたが、とくに終戦後は刃物道具鍛冶として円熟味を増し、数多くの「切出小刀」の名品を世に作り出しました。千代鶴是秀の作った「切出小刀」の名品は、文・土田昇/写真・秋山実『千代鶴是秀』などに紹介されています。

「切出小刀」を作るのは簡単ですが、鍛冶職にとっては、「切出小刀に始まって、切出小刀に終わる」と言われるほど奥が深く、魅力的な刃物作品であると同時に、鍛冶職の技量や性格がはっきりと現われる作品でもあります。その意味からして、鍛冶職にとって大変に怖い作品と言えましょう。


切り出し3 その後、多くの刃物鍛冶の人たちが千代鶴是秀の切り開いた道を歩み、「切出小刀」を作って来ましたが、いままで誰も到達できなかった千代鶴是秀の域まで達したと言ってよい鍛冶職が現れました。一人は、刀鍛冶の2代目加藤長左衛門真平、別名刃物鍛冶2代目水心子藤原良明です。彼は平成12年に現役を退き、8年後に92歳で亡くなっていますが、晩年に多くの「切出小刀」の名品を残しました。

もう1人は2代目千代鶴貞秀で、現在72歳です。彼は鉋鍛冶ですが、日本刀の研究などを通して円熟味を増し、近年すばらしい名品の「切出小刀」作品を作り出しています。


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 この2代目藤原良明遺作品は、3年前に山梨県北杜市高根町にある3代目藤原良明氏の鍛錬所を訪れたときに、私の書いた著書を進呈したお礼に頂いた作品です。均整のとれた気品のある作品に仕上がっています。



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 この2代目千代鶴貞秀作品の天爵銘槍鉋型切出小刀は、今年の7月に港区赤坂の伝統工芸青山スクエアで開催された「産地選別 第3回 DENSAN ザ・職人展」に訪れたときに、会場の奥のガラス棚に陳列されていたのを目にし、そのすばらしさに魅了されて購入した作品です。


「切出小刀」としては、まだ誰も試みていない日本刀の刃紋である互の目乱のような乱れ刃紋様、梨地肌紋様、均整のとれた造形の美しさ、どれを見てもすばらしい作品で、2代目千代鶴貞秀の最高傑作の一つと言えましょう。


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