今回、玄能鍛冶の名工長谷川幸三郎氏に関するいろいろな資料を集めていく過程で、三条における玄能製造の歴史、幸三郎氏の実家の坂井家や養子先の長谷川家、そして二人の弟子たちのことなどを詳しく知ることができ、それによって本稿を書き上げることができました。
名工長谷川幸三郎氏については、現在インターネット上でいろいろと紹介されていますが、それらは部分的に紹介されているのみで、本稿のように全体的に把握した紹介はまだ誰も書いていないので、幸三郎氏について知ろうとする人には、大変参考になるのではないかと思います。
始めは各種の金槌を製造する鍛治職であった長谷川家は、幸三郎氏の義兄長谷川貫一郎氏の代から菱貫銘で玄能鍛冶となり、他の業者の製品より品質でも価格でも格段高く評価されました。この初代の貫一郎氏は、通称長谷貫さんとか、菱貫さんとか、親しみを込めて愛称されました。
長谷川貫一郎氏には後を継ぐご子息がいませんでしたので、阿部家から婿に入られた重郷氏が2代目となりました。重郷氏の実父は、阿部昭忠氏(本名松一)といい、日本刀の刀身彫刻と鍔作りでは名の知られた彫金師でした。
2代目重郷氏は温厚で人望もあり、同業者から技術的な相談を受ければ誰にでも自分の技術を公開し、真面目に黙々と良い品を手頃な価格で提供していました。
しかし、重郷氏は平成18年10月に突然倒れ、この世を去りました。68歳でした。あとを継ぐ人がいなく、残念ながら玄能鍛冶の名門長谷川家は廃業することになりました。また一つ、日本の大工道具文化を担っていた火が消えたのです。
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