スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク





(二) 千代鶴是秀の作風変化についての一つの試論



千代鶴是秀の色紙 
 千代鶴是秀は、息子・太郎の死に悲嘆し、一年間はほとんど鍛冶仕事をしていません。しかし、次第に鍛冶仕事を再開した千代鶴是秀の作風に大きな変化が現れてきました。今までのように切れ味をひたすら追求した機能性ある道具から、装飾豊かな芸術性のある道具への移行です。この移行には、千代鶴是秀の「書の才能」、つまり能書家であったことと漢詩などに素養があったことが、巧みに作用しています。

 千代鶴是秀のこの作風の変化については、今までいろいろと指摘されて来ましたが、ここで一つの試論として私の見解を述べてみましょう。





T、 父に対して太郎のアンチテーゼ


 千代鶴是秀は太郎が亡くなった時は、すでに60歳でした。11歳で石堂家に弟子入りして道具鍛冶の道を歩み始めてから、約50年ほど経っていました。千代鶴是秀が、ひたすら追い求めて来た「切れ味の優れた機能性ある道具」は、すでに完成の域にあったと思います。

 それと比較して千代鶴太郎は、切れ味は是秀を凌ぐものもあり、道具鍛冶として天才的な技倆をもっていた(土田昇著「千代鶴是秀」)と評価されるにも関わらず、残された鉋の「運壽」にしても、「切り出し」にしても、造形的にはなぜか平凡であり、植木鋏にいたっては野鍛冶のように無骨で、単なる刃物道具にしか見えません。

 遡像彫刻を勉強していた太郎は、美術学校で当然造形美についても学んでいたと思います。太郎の作品には、何か意図的なものが窺えます。それは寡作で家計をあまり顧みず、完璧を求めて妥協を許さない偉大な大工道具鍛冶である父の作風に対するアンチテーゼ、と思うのは考え過ぎでしょうか。このように考えると、太郎が亡くなる直前に100枚もの運壽鉋を一気に作った意図も理解できます。





U、太郎について父の評価


 では千代鶴是秀は、太郎の作品をどのように思っていたのでしょうか。次のような話が残っています。

 ある日、太郎が使っていた自作の白引を、「よく切れますね」とほめた来客に、喜んでそれを差し上げました。その時、そばにいた千代鶴是秀が「太郎の作った刃物は、まだ少し硬いと思います。」と来客に言ったそうです(土田著前揚書)。専門的に言えば、その言葉は、焼きを戻すときの温度が低めのために、硬度が高くなって研ぎにくくなっていることを意味します。自分に厳しく他人に優しい性格であった是秀は、決してけなすつもりではなく、ただ善意から出た言葉であったと思います。

 しかし来客の面前で、日頃何も言わない父から、「まだ道具鍛冶として未熟である」と厳しく宣告されたに等しく、真摯で感受性の強い太郎の受けた衝撃は、その心情を想像するに余りありますし、太郎は自分の作品に対する父の無理解な評価を無念に思ったことでしょう。





V、 千代鶴芸術の完成


 千代鶴是秀は、後継者の息子が亡くなっても、従兄弟の9代目石堂秀一のように道具鍛冶を辞めませんでした。悲しみを乗り越えて、やがて道具鍛冶を再開します。それは、理解して上げることができず、道半ばにして自ら命を絶った太郎を「供養する道」であると共に、さらなる高みに至る「前人未踏の道」です。

 相変わらず寡作で、これは千代鶴是秀が自分に課せられた道で、誰も作ったことのない作品を鍛っていく強い意志の現れでした。当然家計は今まで以上に顧みられなくなり、困窮します。希有な才能を与えられた千代鶴是秀の宿命と言えましょう。

 千代鶴是秀は、ひたすら切れ味の優れた機能性ある道具を追求して完成させた技倆の上に、新たに装飾性を加えることになります。作品の造形を考えて鍛ったり、磨いたりします。また能筆家としての才能を作品に活用します。作品を桐箱に入れて箱書きしたり、鉋の台に毛筆で文字を書いたり、作品にまるで毛筆で書いたようにタガネで刻んだりしました。これらのことは、千代鶴是秀がすべて最初に行ったことで、道具鍛冶としては今までに誰も考えもしなかったことでした。

 鉋や鑿にもすばらしい作品が多くあるのですが、しかし装飾においても、造形においても、鉋や鑿には、やはり使用形態上の制約があります。千代鶴是秀の新たなる才能が最も開花するのは、「切り出し」や「小刀」類の製作です。それらは装飾や造形がまったく自由だからです。残されたこれらの作品を写真で見ますと、千代鶴是秀はまさに刃物道具を芸術作品に高めた人と言えましょう。

 道具鍛冶は、まず始めに鍛接の容易な「切り出し」から学びます。そして鉋や鑿を鍛つようになります。千代鶴是秀の生涯を見ますと、「道具鍛冶は、切り出しに始まって、切り出しに終わる」と言っても過言ではないでしょう。

 ここに千代鶴芸術の完成を見て、世の人から千代鶴是秀は不世出の刃物鍛冶として一層高い評価を受けることになるのです。





W、千代鶴是秀の到達点


 千代鶴是秀は、切れ味の優れた使いやすい刃物道具をひたすら追求して来ましたが、その到達点が桐箱に入った「使われない道具」であったとは、なんと人生のアイロニーであるのかと、誰しも思うことでしょう。

 しかし、千代鶴是秀の目指した地平は、このアイロニーを超越したところにあったと思います。それは「太郎の供養」であると共に、名門刀匠の家系の矜持から、大工道具を単なる道具から日本刀のような地位、つまり「使われない鑑賞用の芸術作品」に高めることにあったのではないでしょうか。多くの人たちは、手に入れた千代鶴作品を大切に思い、使わずにそのまま保存しました。
千代鶴是秀の手紙1
 僅少の例として、千代鶴是秀は、使ってもらうために鉋や鑿や切り出しなどを鍛ちました。鍛ってもらったその一人に、私の父である鉋台入れ職・左喜雄がいました。鉋の台入れ使用のために鍛ってもらった鉋や多くの鑿は、桐箱には入れず、為鈴木左喜雄君とか、為鈴木君との為書きがタガネで刻んであります。使用するためと言えども、すべて立派な優れた芸術作品です。
千代鶴是秀の手紙2

千代鶴是秀の手紙3  千代鶴是秀は、時折家に訪れ、台入れの様子を見ていたこともあったそうです。自分の作品がどのように使われるのか見たかったのと、鍛った作品が愛おしかったからではないかと想像が広がります。しかし、なぜか千代鶴是秀の鍛った台堀り鑿はありません。父から聞きそびれてしまったので、それは謎です。おそらくこの謎を解くヒントは、鍛ってもらった鑿は、すべて父が自ら柄を入れたのですが、柄の割れを防ぐ鉄製の輪のカツラが付けられていません。つまり玄能で強く鑿の柄の頭を打って使用する目的の鑿ではないと言うことです。

千代鶴是秀の手紙4 


 ともあれ、幸田守親著「随筆―なにがなんだか―名工千代鶴是秀(17)」に紹介されている千代鶴是秀の絶筆を読むと、7代目石堂是一から教えを受けた刀匠としての矜持を守って、道具鍛冶として前人未到の道を歩み、成し遂げた心の平安がそこには感じられ、大きな感動を受けます。



←前のページへ   このページのトップ   次のページへ→

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved