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(二) 「山田海弘」系について



海弘鑿 刻印


 初代「海弘」(山田長二郎)は、多くの鑿鍛冶と同様に、はじめは問屋の銘で鍛っていましたが、大正10年頃から「海弘」銘を鑿に打つようになりました。最初は「かいひろ」と読ませていましたが、いつの間にか「うみひろ」と呼ばれるようになりました。

 初代「海弘」の弟子には、二代目「海弘」になる明治38年生まれの息子の山田勇一(兄)と初代「常弘」となる息子の山田常五郎(弟)がいました。この二人もやがて鑿鍛冶の達人と評価されるようになりました。

海弘鑿1 兄の二代目「海弘」は、昭和30年に三条鑿組合の二代目組合長に就任すると、鋼研究の第一人者である岩崎航介を招いて鋼の研究会を作り、今までの経験と勘だけに頼る焼き入れ製法から顕微鏡を使った近代的な製法(※2参照)に転換させる道筋を築きました。これ以後、三条鑿の鋼の焼き入れ技術が飛躍的に向上しました。また「全国鑿製造業組合連合会」(※3参照)を結成したりして、組合長を16年間に渡って務め、鑿業界の発展のために多大なる貢献を行ってきました。

 しかし、昭和48年脳溢血で体が不自由になり、鑿を鍛つことができなくなりました。それ以後は、16歳のときから父の下で修業した昭和9年生まれの息子の山田賢一が、三代目「海弘」として鑿鍛冶を続けています。

 初代「常弘」は鑿鍛冶を廃業しました。

海弘鑿2


 (※2) 岩崎航介氏の顕微鏡を使った鋼の焼き入れは、インターネット上で三条金物青年会での岩崎氏の講演「刃物の見分け方」などによって紹介されていますのでご覧下さい。

 (※3) 「全国鑿製造業組合連合会」については当店のホームページ「道具の歴史」《語り伝えれれた「東京鑿共同組合」》をご覧下さい。



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