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(一) 千住の「正芳」



「正芳」 向待ち鑿 刻印
 初代「正芳」は明治41年東京の下町に生まれ、本名を加藤由之助といい、昭和5年23歳のとき三河島の地に鑿鍛冶として独立してから一層研鑽に努め、昭和42年に59歳で脳血栓で倒れるまで37年に渡って鑿を鍛ち、東京一の千住の「正芳」鑿と名を高め、昭和57年5月に74歳で鑿鍛冶名人としてその名惜しまれて埼玉県新田で一生を終えました。

「正芳」 向待ち鑿 一組 鑿は戦前のある時期からスプリングハンマーやグラインダーを使って造られるようになりましたが、初代「正芳」は、機械をまったく使わずにすべて手作りで作業をやり通した最後の鑿鍛冶で、鍛冶職としての心意気を感じさせる名人でした。残念なことに、今では誰の下で修業をしたのか分からなくなりましたが(注1参照)、当時“押入鑿”一組は「市弘」よりも高価であったと言われています。

(注1) 
左久作氏のお宅にお伺いしたとき、三代目池上喜幸氏からお聞きしましたところによりますと、「初代正芳さんは、最初は気性の荒いことで有名であった名古屋の鍛冶寅さんに弟子入りした後、すぐ東京に戻って、台東区にある鳥越神社近くの鑿鍛冶にあらためて弟子入りして修業したと以前聞いたことがあります。」とのことです。

「正芳」 向待ち鑿 一分
 また初代「正芳」は、建具屋が狭く深い溝を掘る時使う“向待ち鑿”の鍛造にも優れた技量を発揮し、建具職の人達にとっては垂涎の的の鑿で、“向待ち鑿の正芳”とも言われ、高く評価されました。初代「正芳」の“向待ち鑿”は鉋台の押え溝を掘った鑿として、「道具曼陀羅」に写真紹介されていますが、その紙上にどういう鍛冶屋かわからないと書かれていることは残念です。

 かつて鉋の台入れ職であったわたしの父も、鉋台の押え溝を掘るときに、千代鶴是秀の“向待ち鑿”と共に「正芳」の“向待ち鑿”も使い、初代「正芳」最晩年に鍛ってもらったシノギ型磨き彫刻入り押入鑿一組や“向待ち鑿”一組と一緒に、大切に保存されています。
「千代鶴 是秀 74歳時作」 向待ち鑿 一分

 初代「正芳」が鑿を鍛てなくなってからは、昭和29年16歳で「正芳」に弟子入りし、ただ一人の「正芳」の弟子であった栃木出身の湯沢昭男(昭和13年出生)が、28歳のとき二代目「正芳」を継ぎ、足立区でしばらく鑿を鍛ちましたが、その後鑿鍛冶職をやめました。



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