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(一) 大場正一郎について



 大場正一郎は、明治32年、父が車引きをしていた大場家の長男として三条に生まれました。明治44年小学校を卒業し、名の知れた鋸鍛冶の五十嵐万吉に弟子入りし、鋸鍛冶の修業を始めました。当時は、一分(3mm)厚の金属板を大槌で鍛って伸ばして鋸を作っていました。

万作の同時代には、名の知れた鋸鍛冶として伊之助、伊三郎、富蔵、馬太郎などがいましたが、現在のように鍛冶銘を切ることは取引先の問屋によく思われず、一部の有名な鋸鍛冶を除いて、無印の方が歓迎された時代でした。


それを知った正一郎は、弟子入りした数年後、「大場の鋸を有名にしてくれ」と明神様に願をかけました。この時以来、毎月1日と15日には、明神様、日吉神社、居島稲荷にはお参りは忘れたことはありませんでした。


年期の明けた時には玉鋼の修業に出たいと修業中に思いましたが、家の経済的な事情で諦めざるを得ず、大正9年に独立して三条市に仕事場を設けました。21歳のときでした。


大正12年の春、東京の問屋に鋸を売るために上京し、今までの無印鋸ではなく、中屋正一郎と銘を切った鋸を初めて売ることができました。自分の鍛った鋸の良さを認めてもらい自信を得た正一郎は、関東大震災復興景気に沸く三条の問屋に自分の銘を切った鋸を直接売るようになりました。


昭和3年11月の御大典奉祝名古屋博覧会に鋸を出品し、褒賞を受けました。昭和6年9月の長岡市主催の上越線全通記念博覧会にも出品して入賞し、三条鋸の期待の若手として注目されるようにもなりました。昭和10年10月の三条金物同業組合25周年記念品評会では、正一郎鋸が第1等に選ばれ、その名は一層高まりました。


昭和17年3月に高等小学校を卒業した長男政弘(昭和2年生まれ)が鍛冶場に入りました。高等小学校の時から目立てなどの手伝いをさせられていた政弘は、何も知らない弟子ではなく、すでに一人前の職人でしたが、昭和19年1月に太平洋戦争の戦況が厳しくなると、徴用に取られました。


正一郎は、機械を導入せずに昔ながらの手作りにこだわりました。機械では自分が考えているような鋸が鍛てなく、もし違った作り方をすれば、それは大場正一郎の鋸ではないと思ったからでした。そのため、月産は数十枚と大変少ない数量でした。


戦後の昭和の時代、大工鋸では、「東の大場正一郎、西の宮野鉄之助」と高く評され、長男の政弘と一緒に正一郎は鋸を鍛っていましたが、やがて高齢のため体調が思わしくなくなり、大部分の仕事は政弘がするようになりました。高校を卒業した孫の正哲も鋸作りを手伝うようになりました。


昭和51年には、建築業界の分野で最も権威ある吉田五十八賞第1回特別賞を、2代目宮野鉄之助・初代千代鶴貞秀と共に受賞しました。大場正一郎77歳の時でした。それから間もなくして、体調を崩した正一郎は多くの人たちに惜しまれ、鋸鍛冶一筋の人生を終えました。


その後、息子の政弘と孫の正哲が、大場正一郎銘でしばらく鋸を手作りで鍛っていましたが、平成13年頃に鋸鍛冶を廃業しました。




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