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(二) 飛鳥時代について



T 飛鳥時代の仏像

 6世紀の半ばに朝鮮半島の百済から日本に仏教が伝来すると共に、仏像も伝えられ、6世紀末には日本でも本格的に仏像の製作が始まります。仏師の誕生です。飛鳥時代(6世紀〜7世紀 聖徳太子の時代)は、金銅像である飛鳥寺丈六釈迦如来像や法隆寺金堂釈迦三尊像などが造られますが(注1)、それと同時に法隆寺百済観音像・法隆寺夢殿救世観音像・中宮寺半跏思惟像・広隆寺弥勒半跏像などの木像も彫られます。

(注1) 金銅仏とは、銅で鋳造した仏像に鍍金(金メッキ)を施した仏像で、日本で最も盛んに製作されたのは、飛鳥時代や白鳳時代でした。

木像仏の木の材質は、広隆寺弥勒半跏像は赤松(一部に樟を使う)の一木造りですが、他の木彫像はすべて樟(くすのき)の一木造りです。「樟」は「楠」とも書きます。本来は、芳香があり、木目の緻密で硬い檀木である白檀(びゃくだん)・紫檀(したん)・栴檀(せんだん)を用います。しかし、日本ではこれらの檀木が存在しませんので、樟(くすのき)が使われました。樟は、木肌が緻密なうえ、やや軽軟質で、耐湿・耐久性に優れ、しかも強い樟脳の香りによって防虫効果を持っているからです。


これらの木彫仏像の表面は、素木のままの仕上げ状態ではなく、漆に木粉や針葉樹の葉の粉などを混ぜたものを盛り上げて細部を仕上げて彩色する木屎漆法(法隆寺百済観音像)や、漆を塗り白土などの下地を施し、さらに上塗漆を塗って金箔を貼る法(法隆寺夢殿救世観音像・広隆寺半跏思惟像)や金箔を貼らずに彩色をする法(中宮寺半跏思惟像)が施されました。




U 飛鳥時代の鑿

この時代に仏像の木彫に使われた鑿は、仏像の素材がやや軽軟質の樟ですので、切れ味が悪い鑿でも、綺麗に仕上げることができました。5世紀の古墳から出土した鑿の例から、飛鳥時代には木彫をするのに必要な多種類の鑿が存在していたことが解ります。それらは茎式鑿や袋式鑿ですが、まだ鋼を作る技術水準は低くて品質も良くなく、鑿の製造技術もあまり発達していなかったので、鑿の切れ味はあまり芳しくなかったと窺い知ることができます。ですから、このことが一つの理由として、細部まですべて鑿で削り仕上げするのではなく、仏像の表面を木屎漆法などによって盛り上げて、細部をヘラで仕上げ加工したのではないかと思います。


彫刻家高村光太郎の著「回想録」の中の「わが国の彫刻の歴史」によると、「飛鳥時代は平鑿ばかり使ったのだろうと思う。飛鳥時代のものは鼻下の人中のような処でも三角に彫ってあり、何処にも丸鑿を使った形跡がない。」と述べています。さらに高村は、「飛鳥時代の彫刻は、平鑿で削ってゆく清浄さ、その清浄な気持ちでやったから、丸鑿など思いもよらなかったのだろうと思う。」と述べています。この言葉は、一人の彫刻家の個人的見解ですが、当時の仏像彫刻に使われた鑿を推察する上で、参考にすべき貴重な指摘のように思えます。


 では、仏像彫刻に使う鑿は、誰が鍛ったのでしょうか。鋤・鍬・鎌・包丁などを鍛つ野鍛冶(農鍛冶)の人達は、鑿は作れません。古より、刀鍛冶だけで生活できる人はごく僅かで、多くの刀鍛冶は生活のために優れた鍛冶技術を生かして、鑿を含めていろいろな刃物を作っていたと思います。

 著名な彫刻家高村光雲が、明治の時代に硬く逆目の多い栃の木で像を彫るとき、普通の鑿では到底使えないので、正宗系の刀鍛冶と知られた正次に、彫刻鑿をいろいろ鍛ってもらったということです。 

飛鳥時代の始めの593年、大規模な木造の仏教寺院大阪四天王寺が建立されます。このお寺を建築するのに多くの工人が集まり、長期に渡り建築に従事しました。彼らに建築道具を鍛つ刃物道具鍛冶が、大阪の堺などから門前に居住して、日本で初めて大工道具の産地が誕生したことが知られています。鑿を作る鍛冶もいましたので、仏師に仏像製作用の鑿を作ったのではないかと思われます。明治から昭和時代前期の大工道具鍛冶の大名人千代鶴是秀も、当時の著名な彫刻家たちに鑿を作っていました。 


以上のことから、当時の都などに住んでいた刀鍛冶や、宮殿・寺院などを建築していた木工(きだくみ/当時の建築に携わる工人の呼称)に道具を鍛っていた刃物道具鍛冶が、仏師に鑿を作っていたと思われます。これらの鍛治職の名前は記録として残っていません。仏師の使った鑿も残されていません。




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