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(一) 「一文字正兼」について



 一文字正兼は、大正13年に新潟県に生まれました。事情があって乳児の時に、三条市に住む小原家の養子になり、「小原兼吉」となりました。三条市の四日町小学校を卒業後、兄が墨壷作りを修業していた岡崎墨壷製作所に見習い弟子として入りました。同級生に、後の初代「壷静」になる田巻勇がいました。田巻勇も、毎日近所の岡崎墨壷製作所の墨壷彫りを覗き、墨壷作りに憧れのようなものを子供心に抱いていたので、一緒に見習い弟子になりました。

 その2、3ヶ月後、先に修業していた兼吉の兄が年季が開け、兄が墨壷職人として独立することになり、兄の仕事を手伝うために一緒に退所しました。

 19歳のとき、志願して兵役に就きました。戦後22年に復員し、また一層墨壷作りの研鑽に励みました。結婚もして、25、6歳になった頃に小原家から独立して墨壷製作を始めました。

一文字正兼 作 大墨壷 亀彫り 兼吉は気が短いところもありましたが、手先がたいへん器用で巧みに墨壷を彫り、しかも頑張り屋で仕事が速く、人の倍の数を作る技倆の持ち主に成長しました。始めは尾部が丸い源氏型や尾部が尖った若葉型の墨壷を作っていましたが、地元の問屋からの要望で鶴亀彫刻の墨壷を彫るようになり、その彫刻のすばらしさに、腕のよい墨壷職人として名を高めて行きました。やがて、「一文字正兼」と名乗り、注文で尺5寸以上の装飾彫刻大墨壷も彫るようになりました。そして、新潟一の墨壷彫りの名工と評されるようになって行きました。一文字正兼は、一女一男をもうけました。

一文字正兼 作 大墨壷 鶴彫り その後、成長した息子が父・一文字正兼の下で墨壷作りの修業を始め、鶴亀彫刻墨壷を彫れるまでに上達しましたが、残念なことに父の下を去り、別の職を求めて行きました。

 一文字正兼の後半生は、尺5寸から2尺の装飾彫刻大墨壷のみを主として受注で彫り、1ヶ月に2、3作を製作していました。とくに龍虎彫刻の大墨壷が有名でした。尺5寸の龍虎彫刻大墨壷の虎の牙を彫っていたとき、力を入れ過ぎて噛み締めていた奥歯が欠けてしまったという逸話も残っています。

 一文字正兼は、いままでの墨壷彫り職の人たちが鶴の羽根を平らに彫っていたのを、膨らませて立体化して彫った最初の人でした。また、「源氏鶴亀墨壷」という名のプラスチック製墨壷が世に出ましたが、その型を彫った人でもありました。一文字正兼は強いこだわりを持つ反面、新しいことにも常に挑戦して来ました。

 しかし、平成になってから体調を崩して入院し、闘病生活を続けて平成10年前後に、新潟一の墨壷名人として惜しまれ、70余年の人生を閉じました。



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