また、青銅製の「刀子」が、縄文時代後期の山形県三崎山古墳から出土しています。この「刀子」は、約3000年前に中国大陸で作られたものと伝えられています。
6世紀以降になると、広く使われるようになり、柄や鞘が豪華に装飾された「刀子」が現れます。この「刀子」は、紙が貴重品で木簡や竹簡が広く使われていた時代に、誤字を削って訂正するための消しゴムのようなものとしても使われました。戦う武器ではなく、主に文人・文官が使う文房具のような存在でした。正倉院宝物に、当時の「刀子」があります。
この「刀子」は、室町時代末期から安土桃山時代の末古刀期という頃から、刀装具として刀の付属品のようになると推定されていると、愛刀家の外山登氏はインターネットのブログ「日本刀について:刀装具の小刀について」で述べています。
江戸時代になると、大工道具を紹介した百科事典が世に出されるようになります。6代将軍徳川家重時代晩年の正徳3年(1713年)頃に刊行されたとされる『和漢三才図会』があります。その中の「第24 百工具」に、「小刀」という名称の小型刃物があります。その「小刀」は柄や鞘を付け、それらに装飾したりして、竹木を削り、紙を裁し、木工に使うのに便利と紹介されます。和名を「古加太奈」と紹介され、紹介された「小刀」の絵では、刃の先端が鋭く尖ってはいない丸味を帯びた直刃形の片刃で、今日の「切出小刀」という形態とは、まったく違います。
9代将軍徳川家重時代の終盤の宝暦11年(1761年)に、大阪の船大工金沢兼光によって書かれ、明和3年(1766年)に刊行された大百科全集『和漢船用集』があります。その中の「巻第12 大工道具之部」の「小刀」の箇所に、「和名 古加太奈 大中小アリ 其刃 細キ者繰小刀ト云 又切出小刀アリ」と書かれています。「切出小刀」という記述が現れるのは、現在私が過去の古文書を調べた限りでは、『和漢船用集』が最初です。
その形態は絵で表示されていませんが、記述から今日の「切出小刀」や「繰小刀」ように思えます。したがって、この頃の大阪では船大工がすでに使っていたことと思われます。しかし、「切出小刀」や「繰小刀」が、全国的に使われていたのか、いつ頃に出現したのかは、現在まだ不明です。
14代将軍徳川家茂時代の終盤の元治元年(1864年)に刊行された絵入り事典『道具字引図解』がありますが、この中には大工道具が紹介されていますが、「小刀」については何も記述されていません。
江戸時代後期に数人の宮大工棟梁が使った大工道具一式が残されていますが、どれも「切出小刀」や「繰小刀」は見当たりません。
野沢松男氏によると、昭和30年代にはほとんどの人たちが鉛筆削りの文房具として「肥後守」を使うようになります。「切出小刀」は、また以前のように職人の人たちが、主として使うだけの刃物道具に戻って行きます。
「切出小刀」を作るのは簡単ですが、鍛冶職にとっては、「切出小刀に始まって、切出小刀に終わる」と言われるほど奥が深く、魅力的な刃物作品であると同時に、鍛冶職の技量や性格がはっきりと現われる作品でもあります。その意味からして、鍛冶職にとって大変に怖い作品と言えましょう。
もう1人は2代目千代鶴貞秀で、現在72歳です。彼は鉋鍛冶ですが、日本刀の研究などを通して円熟味を増し、近年すばらしい名品の「切出小刀」作品を作り出しています。
この2代目千代鶴貞秀作品の天爵銘槍鉋型切出小刀は、今年の7月に港区赤坂の伝統工芸青山スクエアで開催された「産地選別 第3回 DENSAN ザ・職人展」に訪れたときに、会場の奥のガラス棚に陳列されていたのを目にし、そのすばらしさに魅了されて購入した作品です。
「切出小刀」としては、まだ誰も試みていない日本刀の刃紋である互の目乱のような乱れ刃紋様、梨地肌紋様、均整のとれた造形の美しさ、どれを見てもすばらしい作品で、2代目千代鶴貞秀の最高傑作の一つと言えましょう。
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