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(三) 明治時代以降の前挽鋸製造について



明治時代になると、明治5年(1872)明治政府によって、いままで製造や商取引において独占権を持っていた株仲間制度が廃止されます。それによって、前挽鋸の製造や商取引が自由になり、多くの前挽鋸鍛治職人が出現します。それらについても述べてみましょう。




T 近江甲賀におけるその後の前挽鋸製造

 和鋼を素材として使った製造から、明治10年代に洋鋼が平鋼や板鋼の形で輸入されるようになると、製造工程が成形から始められるようになり、大幅に短縮されるようになりました。

そのために、「滋賀県有形民俗文化財の部」よると、明治35年(1902)の頃には、現在の甲賀市水口町三大寺から甲南町の杣川沿いにかけて13人の前挽鋸鍛冶職人が誕生していて(注1)、甲賀のその他の地域にも前挽鋸を製造する鋸鍛冶が誕生していました。


(注1) 明治35年(1902)の甲賀の前挽鋸製造業組合によると、組合員であった三本柳・牛飼・杣中・森尻・深川・深川市場・竜法寺・寺庄に住む13人で、森尻の八里平右衛門、深川の今村庄九郎と利田仁右衛門、野田の森田庄之助などがいました。(滋賀県の有形民俗文化財の部)

甲賀における前挽鋸の最盛期といわれた明治40年(1907)の前挽鋸の出荷量は25,000枚、明治41年では27,000枚で、全国や当時日本の領土であった樺太・朝鮮・台湾などにも出荷されていました。まさに、日本における前挽鋸の一大産地となりました。


 甲賀の地場産業として発達した前挽鋸製造は、明治時代の中盤以降に導入された電動による大型丸鋸機械の全国的な普及で、昭和時代になると急速に衰退していきました。

しかし、機械挽きよりも前挽鋸で挽く方が時間は掛かりますが、切断面が綺麗で、しかも効率よく板に製材することができるということから、高級材や銘木の場合は、昭和時代の後半頃まで、各地域で木挽き職によって前挽鋸が使われていました。




U 兵庫県三木市のその後の前挽鋸製造

幕末期のもう一つの前挽鋸の産地であった現在の兵庫県三木市は、明治時代になっても近江甲賀のように前挽鋸鍛冶職人は増えずに三軒のみで、建築用や山林用などの鋸鍛冶職人の方が数多く誕生しています。(注2)


(注2) 時代は異なりますが、参考までに11代将軍徳川家斉時代の文化12年(1815)では鋸鍛冶が61軒ありましたが、昭和3年(1928)には鋸鍛冶が256軒に増えています(拙著「大工道具文化論」)。

三木町の明治28年(1895)当時の生産量は、前挽鋸は10,800枚で、生産額は22,100円、鍛冶屋から問屋に渡す単価の最高単価は3円・最低単価は1.2円でした。


ちなみに、建築用鋸や山林用鋸などの生産量は315,000枚で、生産額は94,500円、鍛冶屋から問屋に渡す最高単価は1円・最低単価は0.15円でした。前挽鋸や大工用鋸などの小売価格は、鋸目立てなどでこの価格の約3倍位になったと思っていいでしょう。


江戸時代では三木の主力製品であった前挽鋸が、この明治28年時は三木金物生産額の7.4%の割合に激減しています。前挽鋸以外の鋸は31.6%でした。鉋は15.5%、鑿は12.5%、鋏は14.0%でした。(注3)


(注3) 鍛冶屋から問屋に渡す鉋の最高単価は0.2円・最低単価は0.09円、鑿の最高単価は0.2円・最低単価は0.04円で、問屋サイドで行う刃の研ぎや鉋の台入れや鑿の柄入れなどで、小売価格は約3倍位になります。大工の1日の手間賃は、明治28年当時は54銭でした。1円は100銭でした。

これは、全国的に原木から板を製材する方法が、前挽鋸を使った人力から電動による大型の丸鋸機械に代わり始めたからです。25年後の大正10年(1921)の三木町金物生産額統計からは、前挽鋸が消えています。三木における前挽鋸鍛冶職人が消滅したと言っていいでしょう。






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