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(一) 江戸の鋸鍛冶名工「中屋甚九郎」



 信州鋸の始祖と言われる藤井甚九郎は、江戸では6代目中屋甚九郎でもありました。先祖の初代甚九郎が、3代将軍徳川家光時代の晩年、正保年間(1644〜1647)頃に江戸銀座2丁目で、中屋と言う屋号で鋸の製造を開業したのが鋸鍛冶としての開始でした。

中屋の屋号を使う江戸鋸鍛冶の藤井家は、室町時代中期に京都伏見に現れた鋸鍛冶中屋家が中屋の屋号の始祖ですので、その弟子系統の鋸鍛冶ではないか、もしくは安土桃山時代に蒲生氏郷が移封になった会津に、京都伏見から中屋屋号の鋸鍛冶を連れて来たことが契機となって盛んになった会津鋸系統の鋸鍛冶ではないか、と思われます。伏見の中屋家や会津鋸鍛冶は、共に樹木伐採用鋸の製造を特に得意としていました。また、江戸銀座2丁目は、隣り地区に木挽職が多く住んでいた木挽町1丁目・2丁目がありました。


5代将軍徳川綱吉最晩年から6代将軍徳川家宣の前半の宝永年間(1704〜1710)に、3代目甚九郎が江戸京橋に移り、そこで5代目彦兵衛まで鋸鍛冶を開業していました。京橋地区には、大鋸町や大工町や鍛冶町と名付けられた所があり、大工職や鍛治職が多く住んでいた地区でした。


 6代目中屋甚九郎のとき、江戸の高島藩邸の番匠であった伊藤権右衛門が、中屋甚九郎の優秀な鋸製造技術を郷里の諏訪地方にも広めたいと考えて藩に進言し、11代将軍徳川家斉時代の中頃、文化2年(1805)に6代目中屋甚九郎は、高島藩から諏訪に招請されました。

 6代目中屋甚九郎は家督を弟の彦兵衛に譲り、本名の藤井性に改め、6代目中屋から藤井甚九郎となって諏訪清水町に来住し、主に山林用大鋸を製造しながら多くの弟子を育て、高度な鋸鍛冶技術を伝えました。高島藩から厚遇されて鋸鍛冶職取締役にも任じられました。

 甚九郎や弟子たちが鋸の製造に使った材質は、出雲国安来で生産された玉鋼で、当時の品質の順位は司・選・宝・来・山の5等級があり、第1等級の司は刀匠が使用しましたので、第2等級の選、第3等級の宝を使用していました。

弟子が修業を終えて独立するときには、「甚」とか「九」の字を名前として授け、独立資金を貸し与えたり、技術と商売を懇切に指導したりしました。これらの弟子たちによって、諏訪・岡谷・茅野地方などに優れた鋸鍛冶技術が広まっていきました。


藤井甚九郎の鋸製造技術を最初に学んだ弟子に、武津(現諏訪市)の宮坂甚三郎、大熊村(現諏訪市)の関甚五右衛門、下諏訪友之町(現下諏訪町)の関甚七、上浜(現岡谷市)の清水甚兵衛、栗沢村(現茅野市)の小林甚八、山田新田(現茅野市)の河西甚五郎、穴山新田(現茅野市)の長田甚四郎、南大塩村(現茅野市)の宮下九兵衛、上古田村(現茅野市)の小野九郎兵衛、上州安中町(群馬県)の九右衛門が知られています。


甚九郎は、12代将軍徳川家慶時代の中頃の天保14年(1843)に病に倒れ、同年7月に弟子たちに惜しまれ亡くなりました。その後、息子の2代目藤井甚九郎が父の意志を継ぎ、嘉永年間(1848〜1853)には師弟一同で金山講を起こし、相互の鍛冶技術の成果を語り合いながら研鑽に努めましたので、信州鋸の名声は一層高まり、甲斐・越後・上野・飛騨などの地方からも、弟子入りするようになって行きました。


 その後の藤井甚九郎家は、4代目が明治時代に群馬県桐生の名工2代目中屋熊五郎の下で修業したことが、故平澤一雄東京農業大学教授の中屋熊五郎家調査研究によって解っています。




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