スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク





(二) 「江戸目」の出現時期について



T 平澤一雄教授説

鋸歯の形状2
 近世の江戸時代に入ると、新しい形態の鋸が現れます。一人挽き用の縦引き鋸である大型の前挽鋸、鋸の両端に柄がついて二人で大木を横に挽く台切大鋸などです、前挽鋸の歯は「ガガリ目」です。台切大鋸の歯は「イバラ目」です。また、桐挽き用の「吊鐘目」も出現しますが、これは「箱屋目」の変形した鋸歯の形状で、新形態の鋸歯と言うより「箱屋目」の分類に属すると言った方がいいでしょう。
 この江戸時代のかなり早い時期に「江戸目」が考案されたのではないかと、東京農業大学の故平澤一雄教授は著書「産業文化史/鋸」(昭和55年)の中で、「江戸目」出現時期について述べています。

平澤教授によると、国立東京博物館に展示された香木を挽く18世紀の江戸時代の鋸である「つるかけ鋸」のたいへん細かい鋸歯を見て、「まぎれもない江戸目(現在の横挽き目)」であったといいます。


そして、「この江戸目の発生の時期が、いつごろであるかは、明らかでないが、おそらく、江戸時代のかなり早い時期に、すでに存在したのではないか」と、また「江戸で考案された新しい歯型が、地方に伝えられる際に、江戸目と名付けられたものであろう。」とも述べています。


さらに平澤教授は、9代将軍徳川家重時代の宝暦11年(1761)に書かれた「和漢船用集」で説明している歯細き鋸が、「おそらく、この江戸目形の鋸歯が刻まれていたものと考えられる。つまり、ここに(和漢船用集のことをいう)出ている挽切(ひっきり)も、細歯鋸も、鴨居切も、すべてこの江戸目形の鋸歯を刻んだ鋸であったと推測できるのである」とも述べています。







U 近代の建築用鋸

 上記の平澤説について、近世である江戸時代の文献資料や伝世鋸から建築用の鋸を考察して確認してみましょう。この分野の研究は、竹中大工道具館の渡邊晶主任研究員の論文「近世の建築用の鋸について―伝世鋸をはじめとした関連資料の調査報告 その5―」(竹中大工道具館研究紀要第7号 1995年6月)があります。

この論文によると、「和漢三才図会」・「和漢船用集」・「訓蒙図彙大成」・「身体柱立」・「道具字引図解」・シーボルト著「NIPPON」(在日期間1823〜1829に調査したものを纏めたもの)などに描かれた鋸の絵は、鋸歯が鈍角又は鋭角二等辺三角形や、柄の方向に傾いた鋭角又は鈍角三角形になっています。ヤスリで鋸歯の上目を擦ったと思われる鋸は見当たりません。「江戸目」の記述もありません。


渡邊論文には、さらに実物資料として京都の桃山天満宮所蔵の伝世鋸について詳しい考察もあります。この伝世鋸は、27年後には明治維新になる12代将軍徳川家慶時代の前半、天保12年(1841)に桃山天満宮社殿完成のとき、大工棟梁の坂田岩次郎が奉納したと伝えられる大工道具のなかにある5点の鋸です。これらの鋸は、造作材の横挽き鋸3点、造作材縦挽き鋸1点、造作材の曲線挽き用が1点です。横挽きと曲線挽き鋸が「イバラ目」で、縦挽き鋸が「ガガリ目」です。「江戸目」はありません。


 以上にことから、江戸時代の幕末期辺りまで「江戸目」で造られた鋸は発見されていません。江戸時代のかなり早い時期に「江戸目」が存在し、地方に伝えられる際に、「江戸目」と名付けられたものであろうという平澤教授の説に疑問が生じます。また、「和漢船用集」(11代将軍徳川家斉時代後半の文政10年/1827)に記載している鋸が、「江戸目形の鋸歯を刻んだ鋸であったと推測できる」との説も、渡邊論文から疑問が生じます。

平澤教授が国立東京博物館で見た「つるかけ鋸」の歯が、「まぎれもない江戸目(現在の横挽き目)であった」というのは、不思議でなりません。

 そこで、「江戸目」出現時期について私が調べて得た結果を、以下述べてみましょう。



V 「江戸目」出現の時期

 現在、「江戸目」の鋸が製造された年代が明確に確認できる鋸が2点あります。1点は、松尾具屑著「木工古道具の楽しみ方」(平成16年)に写真紹介されている江戸の名工鋸鍛冶の中屋久作造の鋸です。刃の長さが31.8pの頭部角型片刃鋸で、コミに「明治元年正月吉日」と切られています。

あと1点は、平澤一雄著「産業文化史/鋸」(昭和55年)に写真紹介されている江戸浅草の名工鋸鍛冶の中屋平治郎造の鋸です。刃の長さが32p、鋸身の肉厚が元刃部0.81o・最小値0.41oの頭部角型片刃鋸で、コミに「文久元年5月作」と切られています。文久元年は、14代将軍徳川家茂時代の中頃で、西暦1861年です。7年後には明治維新(1868)になります。


中屋平治郎の師匠といわれる会津の名工鋸鍛冶に中屋助左衛門がいます。この中屋助左衛門銘の頭部角型の「江戸目」片刃鋸が、土田一郎著「日本の伝統工具」に写真紹介されていますが、中屋助左衛門は4代目(4代目は明治13年生まれ)まで続き、この鋸が何代目の鋸なのか、また製造年月も不明なのが残念なことです。


「江戸目」は、柄の側に鋸歯が傾いた「イバラ目」の不等辺三角形を、より一層鋭角な不等辺三角形にした鋸歯と言えましょう。そうすることによって、刃の長さに歯数を増やし、細く鋭角になった鋸歯の先端をヤスリで擦って上目を作り、引く抵抗に耐えるようにした鋸歯の形状です。歯数も多く、鋸身の肉厚が薄いと軽く引け、切断もきれいに挽けます。文久元年造の中屋平治郎鋸は、鋸の大きさからすると、今までの鋸と違って鋸身はかなりの薄さです。

「江戸目」は、残された鋸の形態から判断すると、大工職が使う造作材用の進化した横挽き鋸歯です。造られた年代が確認できる「江戸目」の鋸が、刃の長さが31.8pと32pということで、また当時の小型「江戸目」造作材鋸がまだ発見されていないことから、もしかすると当初は、大工職にとって大型の造作用横挽き鋸に「江戸目」が考案された可能性があります。


 江戸幕末に会津では、7代目中屋重左衛門によって鋸の菜種油による焼入れ法が日本で初めて考案され(拙著「続・日本の大工道具職人」平成24年)、今までの水焼入れ・泥焼入れ・砂焼入れの場合よりも、容易にしかも薄手の鋸身の肉厚で焼入れが可能になった(吉川金次著「ものと人間の文化史/鋸」昭和51年)と言います。しかし、林業が盛んであった会津では、樵職・杣師(そまし)の使う鋸の製造が主力であったため、「江戸目」が誕生する条件が欠けていました。

 木造建築が盛んで、造作材の横挽き鋸を多用する人口百万人の江戸に鋸の油焼入れが導入され、また江戸時代中期ごろに江戸に目立て専門職が出現していたこと(拙著「日本の大工道具職人」平成23年)、江戸幕末期から江戸にヤスリ造りをしていた名工職人が存在していたこと(東京府勧業課発行「東京名工鑑」明治12年)が解っています。

「江戸目」の誕生には、@ 油焼入れ法を確立している鋸鍛冶の存在、A、木造建築が盛んで大工職が多く居住していること、そしてB、上質な目立てヤスリとそれを使いこなす高度な目立て職の存在が必須条件です。幕末の江戸のみが、他の鋸産地とは違い、この必須条件を持っていたので、大工職の使う造作材用の横挽き目として「江戸目」が誕生したと思われます。

 もしかしたら、会津の中屋助左衛門から鋸造りの教えを受け、江戸で油焼入れ法を取り入れて鋸を鍛っていた先駆けである中屋平治郎を含めた周辺の鋸鍛冶たちが、「江戸目」を考案したのではないかと思えてなりません。

そして、江戸で考案された新しい鋸歯が、使い易くきれいに挽ける横挽き鋸の歯として全国に普及し、それが「江戸目」と呼ばれるようになったものと思われます。明治時代の初期に東京で誕生した両刃鋸の普及も、その一因となったと思われます。





←前のページへ   このページのトップ   次のページへ→

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved