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(三) 鎌倉時代



 鎌倉時代の初期に成立した百科全書『二中暦』で技術的な職能と紹介したされた中に、絵師・細工・仏師などに混じって木工(こだくみ)があります。このことから、当時でも建築に直接携わる職業種名が「木工(こだくみ)」と呼ばれていたことがわかります。

 しかし、同時に鎌倉時代初期の古文書である『高野興廃記』の中に、「高野山大塔の修理のときに、19人の番匠が京都より来て、その一人は大夫大工であった」と記されています。大夫大工とは、木工寮や修理職出身で高い官位を授けられた高度な建築技術を有する統率者です。

また、少し遅れて興福寺北円塔を造営したときの古文書に、番匠大工2人・引頭8人・長20人・連11人、瓦葺き大工1人・引頭2人、瓦造り大工1人、鍛冶長2人、鋳物師大工1人と書かれた記録が現われます。この場合の大工とは、どれも統率者・指導者を意味します。


 ここで注目する点は、京都から来た木工たちや興福寺の寺工である木工たちを「番匠」と呼んでいることです。当時、京都でも奈良でも、職業種名を「木工」から「番匠」に変わり始めていたことがわかります。

推察するに、平安時代中頃から木工寮や修理職の衰退とともに、寺工のようにそれらの役所に属さない木工が「座」を結成して活動し始めた結果、その木工たちの中に木工寮の番上工のような役割を持った工匠たちを、番をする匠として、役所の官名であった番上工に替り、民間職名として番匠と呼ぶようになったと思われます。現在では、中世から番匠の語彙が出現し、そのもとは木工寮の番上工であるとの定説です。


鎌倉時代終盤の付けられた京都の室尾谷神社本殿の棟札に、南都巧匠の大工宗高が社殿を、丹後国番匠の藤原国家が社殿を包むように建つ覆屋(おおいや)を建立したと記されています。棟札とは、上棟式のときに棟木に打つ付ける札で、工事年月日・施主・工事担当者などを記したものです。この場合、大工は番匠より上位に書かれています。






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