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(一) 古墳時代から奈良時代



 この時代では、直接木造建築に携わる工匠たちは、職業種名としてどのように呼ばれていたのでしょうか。奈良時代に書かれた日本最古の歴史書である『日本書紀:雄略天皇記』(720年)の中に、「木工の韋那部真根(いなべのまね)が、石を台にすえ、斧で木を切る作業を終日続けても刃を欠くことはなかった」という記述があります。「木工」とは、「こだくみ」とか、「もく」とも読みます。

この人物は、『雄略天皇記』に書かれたその後の文面を見ますと、直接建築に携わる工匠です。このことから、当時直接建築に携わる工匠は、「木工」という漢字を当て、「こだくみ」と呼ばれていたことがわかります。


 『日本書紀』に記載された飛鳥時代の白雉元年(650年)10月条に「将作大匠荒田井直比羅夫」という建築工匠と思われる記述があります。この「大匠」とは、当時中国で使われていた建築担当役所の長官を表す身分官職名で、職業種名ではありません。

7世紀後期(飛鳥時代後期)から実施され、8世紀(奈良時代)に最盛期を迎えた「律令制度」があります。「律令制度」は、国の法律と組織を定めた制度です。この制度には、宮内省に属した「木工寮」(もくのりょう)、和名で「こだくものつかさ」という機関がありました。


 木工寮は、宮殿の建築・修理、京内の公共施設の修理、木製品の製作などを行い、これらの労働力・資材の調達、予算の立案なども行う役所でした。木工寮の建築を担当する部署に工部(たくみべ)があり、工部方は建築をする工匠たちを統率・管理するところでした。その一部である木工方には、大工(おおきたくみ)・少工(すくなたくみ)・長上工(ちょうじょうこう)・番上工(ばんじょうこう)という官職がありました。 

この場合、大工という役職は最高責任者、少工はその次官的な人物、長上工は建築に関する上級技術を有する監督官、番上工は長上工の下で一定期間交代勤務する上級技術者でした。この場合の大工(おおきたくみ)は官職名で、今日の大工(だいく)と言う直接建築工事に携わる職人の職業種名とは異なります。


 さらにこの時代、官寺である各寺に造東大寺司、造薬師寺司、造大安寺司などの役所が設けられ、木工寮のように大工・少工・長上工・番上工という身分組織で運営されました。かれらは公務職で、令外官(りょうげのかん)とされました。

やがて、国の予算で運営されていた造寺司が廃止され、寺が自力で営繕しなければならなくなり、各寺は寺組織の中に造寺所を設けることになりました。そこに属する工匠たちは、大工(だいく)・権大工(ごんだいく)・長(おとな)・連(れん)という階級の身分組織で呼ぶようになりました。大工を「だいく」というのは、官職名の「おおきたくみ」と区別するためであったようです。


大工は最高責任者である共にプロデューサー的建築家、権大工は副統率者、長は上級技術者、連は長の配下の工人たちを意味していました。


この時代は、官職名、階級組織名はいろいろありましたが、建築に直接携わる工匠の職業種名は「木工(こだくみ)」でした。






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