この人物は、『雄略天皇記』に書かれたその後の文面を見ますと、直接建築に携わる工匠です。このことから、当時直接建築に携わる工匠は、「木工」という漢字を当て、「こだくみ」と呼ばれていたことがわかります。
7世紀後期(飛鳥時代後期)から実施され、8世紀(奈良時代)に最盛期を迎えた「律令制度」があります。「律令制度」は、国の法律と組織を定めた制度です。この制度には、宮内省に属した「木工寮」(もくのりょう)、和名で「こだくものつかさ」という機関がありました。
この場合、大工という役職は最高責任者、少工はその次官的な人物、長上工は建築に関する上級技術を有する監督官、番上工は長上工の下で一定期間交代勤務する上級技術者でした。この場合の大工(おおきたくみ)は官職名で、今日の大工(だいく)と言う直接建築工事に携わる職人の職業種名とは異なります。
やがて、国の予算で運営されていた造寺司が廃止され、寺が自力で営繕しなければならなくなり、各寺は寺組織の中に造寺所を設けることになりました。そこに属する工匠たちは、大工(だいく)・権大工(ごんだいく)・長(おとな)・連(れん)という階級の身分組織で呼ぶようになりました。大工を「だいく」というのは、官職名の「おおきたくみ」と区別するためであったようです。
大工は最高責任者である共にプロデューサー的建築家、権大工は副統率者、長は上級技術者、連は長の配下の工人たちを意味していました。
この時代は、官職名、階級組織名はいろいろありましたが、建築に直接携わる工匠の職業種名は「木工(こだくみ)」でした。
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