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 《播州三木の鋸鍛冶 名工「宮野鉄之助」》


宮野治光2



はじめに



 三木の鋸鍛冶の最も古い記録としては、8代将軍徳川吉宗の晩年であった寛保2年(1742年)に三軒の鋸鍛冶がいたとの文献が残っています。当時、最も盛んな鋸の産地は、室町時代にその起源が求められる京都伏見で、10代将軍徳川家治や11代将軍徳川家斉の時代であった天明年間(1781〜1788年)には、40軒以上の鋸鍛冶がいました。

 その後、通商都市として大阪の繁栄や江戸と大阪間の海運便の隆盛などにより、京都伏見は時代の流れに次第に取り残されて衰退し、播州三木が鋸生産量において京都伏見を凌ぐようになって行き、関西における鋸の一大産地になりました。

 現在、手挽き鋸はすっかり使われなくなりましたが、その三木には、まだ大工・山林用鋸鍛冶が22軒、山林用鋸鋸鍛冶が4軒、特殊用鋸鍛冶が4軒存在し、鋸の製作をしています。その中で、名工と評される鋸鍛冶の伝統工芸士として、4名の人が選ばれています。

 この長い三木の鋸鍛冶の歴史の中に、玉鋼から鋸を鍛える伝統技術を受け継ぎ、その製造方法を残した二代目「宮野鉄之助」がいました。この二代目「宮野鉄之助」は、平成8年に95歳で天寿を全うしましたが、太平洋戦争終戦後の昭和時代に、東の「大場正一郎」、西の「宮野鉄之助」と評された鋸鍛冶の名工でした。

 平成22年7月31日放送の「開運!なんでも鑑定檀」に出品された「宮野鉄之助作鋸製作標本」には150万円の高い評価が出ています。

 私は今から40数年前の20代の頃、当店の目立てをお願いしていた目立て屋さんから、所蔵していたこの二代目「宮野鉄之助」の両刃鋸を手に取って見せてもらったり、その鋸の出来の良さを解説してもらったりしていましたが、当時は鉋や鑿や墨坪の方に私の興味があったので、ただ聞き流すだけで、今日まで詳しく調べずに来ました。

 最近ある人から「宮野鉄之助」鋸について尋ねられましたので、今度はいままで詳しく知らなかった「宮野鉄之助」について調べてみようと思い立ち、多くの関係者にお聞きしたり、インターネットで調べたりして資料を収集し、詳しく知りえました。

 当店には二代目「宮野鉄之助」の長男裕光氏が、今から約40年くらい前の40代後半に製作したと伝えられる「宮野治光」銘の尺両刃鋸があります。そこで、それを写真紹介すると共に、三木の鋸鍛冶「宮野鉄之助」について述べてみたいと思います。

 尚、この原稿は、多くの関係者のお話や、平澤一雄著「産業文化史/鋸」(1980年)、パティシエnisioオフィシャルサイト「鋸コレクション」、芸術の寺社彫刻・西本彫刻所ホームページなどを参考にさせて戴きました。以下、敬称は略させていただきます。


播州三木の鋸鍛冶 名工「宮野鉄之助」 目次




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(一) 鋸鍛冶「宮野平次郎」について (二) 鋸鍛冶「宮野鉄之助」について T 初代 宮野鉄之助 U 2代目 宮野鉄之助 V 2代目宮野鉄之助の3人の息子 W 2代目宮野鉄之助の弟子たち むすびに (一) 鋸鍛冶「宮野平次郎」について