スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク





(一) 会津鋸鍛冶文化の伝藩について



 江戸時代に日本の東における鋸の一大産地になり、優れた鋸製造技術を持った会津鋸鍛冶文化が、越後や江戸にどのように伝藩していったのかを、まず述べてみましょう。

 4代将軍徳川家綱の時代の寛文年間(1661〜1673年)に、会津における鋸の製造技術は、越後に伝えられたと言われています。その影響を受けたと思われる越後三条鋸の始祖と言われている「阿部四兵衛門」が、延宝2年(1674年)には、すでに三条上町古鍛冶町で鋸製造していたようです。

 5代将軍徳川綱吉時代の元禄年間には、燕において和釘職人たちが目立てヤスリを専業で製作し、のちに越後ヤスリとして有名になりました。

 また、8代将軍徳川吉宗時代の元文年間(1736〜1741年)には、会津鋸鍛冶の「中屋平右衛門」が越後に移住し、鋸や目立てヤスリを製造して、その技術を伝えたとも言われています。

 11代将軍徳川家斉時代の文政元年(1816年)脇野町で生まれた「中屋庄兵衛」は、18歳のときに会津に行き、会津鋸鍛冶の「中屋重左衛門」の下で修業しました。その技術を修得した「中屋庄兵衛」は、12代将軍徳川家慶時代の天保13年(1842年)に郷里に戻り。鋸鍛冶を開業しながら4人の弟子を養成しました。それ故に、「中屋庄兵衛」は脇野町鋸の始祖として尊敬されています。

 そして、養成した4人の弟子たちの系譜を辿れば、現代に至るまで長岡・柏崎・関原・出雲崎などの鋸鍛冶のほとんどがこの門下に属し、この系統に属する鋸鍛冶は、県内はもとより北海道や関東にも散在して、脇野町鋸の名声を世に知らせました。

 当時、政治や経済の中心地であった江戸は、豊臣秀吉の命で徳川家康が江戸に移封された時に、築城や城下町作りに鋸鍛冶も連れてきたり、また8代将軍となった徳川吉宗も二見屋甚八系の鋸鍛冶を紀州から連れて来ていたので、鋸鍛冶はいました。当然、彼らは優れた会津鋸鍛冶の影響を受けていたと思われますが、具体的にどのような伝藩があったのかは、残念ながら資料が発見されていないために分かりません。、

 現在分かっているのは、油焼き入れ法を考案したと伝えられる会津鋸鍛冶の「中屋助左衛門」の弟子という浅草安倍川町に住んでいた江戸の名工「中屋平治郎」が、幕末期の江戸に鋸鍛冶技術を伝えています。

 このように会津の優れた鋸鍛冶技術は、越後へ、そして江戸へと伝藩して行きました。



←前のページへ   このページのトップ   次のページへ→

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved