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 《会津最後の鋸鍛冶「中屋伝左衛門》



会津の鋸鍛冶2



はじめに



 安土・桃山時代から江戸時代に渡り、日本の東における大工道具の一大産地として栄えた会津地方における鋸鍛冶の歴史は、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉の命により、蒲生氏郷が東北地方の守りの拠点として移封した時から始まりました。

 蒲生氏郷が大規模な築城や城下町作りのために、当時日本における鋸の代表的な産地であった京都の伏見から、鋸製造に優れた技倆を持った鋸鍛冶たちを連れて来て、地元の鍛冶職にその技術を伝えたからです。

 これを契機に会津における鋸の製造は盛んになり、4代目将軍徳川家綱の時代の寛文6年(1666年)には、「鋸を製造したのは控え目にみても、20軒以上あったと推測される」と会津鋸鍛冶を調査した堤章氏は述べています。

 8代将軍徳川吉宗の時代の享保年間(1730年)頃、会津藩老の田中玄宰が大阪天王寺門前の鋸鍛冶「中屋源太郎」の高弟の「中屋重内」や「重五郎」を招いて、伐採用の手曲がり鋸である天王寺鋸(※1参照)を藩内に伝え、更に鋸鍛冶は盛んになりました。そして、越後や江戸にその鋸鍛冶技術は伝藩していきました。

※1 天王寺鋸の名の由来は、江戸時代に大阪の天王寺近くの鋸鍛冶が、新しく柄の曲がった鋸を製造しました。その鋸を天王寺鋸と呼んだとか、また柄の手曲がり鋸を製造していた天王寺近くの鋸鍛冶宅に盗人が入り、その鋸を盗んで捕まり、奉行所に鋸鍛冶が呼び出されてその鋸の名を聞かれたとき、住んでいる地名の天王寺の鋸と答えたことから呼ばれるようになったとの話が伝わっています。

 会津の鋸鍛冶技術の優秀さを示す逸話として、幕末頃、江戸で土蔵のカンヌキを切る土蔵破りの盗人が横行した時、カンヌキを切ることができる鋸は会津の中屋助左衛門の作った鋸に違いないと言って、助左衛門鋸の製造禁止命が出たとの話が伝わっています。

 そして、明治の北海道開拓期や太平洋戦争終戦後の戦災復興期が、会津鋸の最も盛んな黄金期で、会津若松の博労町や中六日町、滝沢町などに軒を並べた鋸鍛冶から、鋸を鍛つ鎚音が朝早くからにぎやかに響いていました。

 しかし、その後の昭和30年頃にチェーンソーや電動丸ノコの登場、そして建築工法の変化などによって、手挽きの鋸は次第に使われなくなり、鋸鍛冶が次々に廃業し、現在の会津鋸鍛冶は3代目「中屋伝左衛門」一人になってしまいました。3代目「伝左衛門」もすでに高齢のうえ、所蔵していた鋸を鍛つ鋼も残り少なくなり、会津鋸の文化は終焉を迎えつつあります。

 そこで、今回は「会津最後の鋸鍛冶/中屋伝左衛門」と題して、どのように会津の鋸鍛冶文化が伝藩して行ったのか、そして最後の一人となってしまった「中屋伝左衛門」について、同時に語ってみましょう。以下、敬称は略させて戴きます。


会津最後の鋸鍛冶「中屋伝左衛門」 目次



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(一) 会津鋸鍛冶文化の伝藩について (二) 会津最後の鋸鍛冶「中屋伝左衛門」について むすびに (一) 会津鋸鍛冶文化の伝藩について