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(一) 会津刃物道具鍛冶の歴史



重延4 会津刃物道具鍛冶の歴史の源は、豊臣秀吉が天下を統一した安土桃山時代に遡ります。秀吉の側近の一人であった蒲生氏郷が、東北地方の守りの拠点として、文禄元年(1591年)松坂から会津に移封になり、そのとき築城や町造りのために、京都や近江などから多くの刃物道具鍛冶職人を伴って来たことから始まります。

 それ以来、上杉家、加藤家、保科家、松平家と藩主は替わっていきましたが、雪深い会津の地に刃物道具鍛冶の文化が大きく花開き、日本の東における大工道具鍛冶の一大拠点になり、やがて越後や江戸にその文化が伝播していきました。

 この会津刃物道具の中興の祖に、初代「重房」の若林安右衛門がいました。彼は若林林之助とも称して、刀鍛冶から刃物道具鍛冶になった人でした。この「重房」の系統が、江戸後期から明治初期にかけて鉋や鑿などの大工道具を鍛ち、その名を高めることになったのです。

 初代「重房」には、長男に安左衛門(1821〜1888)と次男に猪之吉(1824〜1875)がいて、二人とも刀鍛冶から刃物道具鍛冶になった人でした。

 長男の安左衛門は、「重房」銘の「重」の文字の中央線を上に突き抜けずに「里」としたので、「里重」と呼ばれました。また次男の猪之吉は、上に突き抜けたので「通し重」と呼ばれ、二人の作品が区別されました。

重延3 江戸時代後期に日本一の刃物道具鍛冶と評された「会津の重房」とは、次男の猪之吉のことで、その優れた鍛冶技術は、越後の与板や三条に、また江戸にも伝えられました。猪之吉は、「吉房」、「重道」などの優秀な弟子を育て上げたばかりでなく、会津藩が天皇家に献上した日本刀を鍛えたとも伝えられている名工でした。

 「里/重房」の若林家は、安左衛門・養子の定之進と続き、「通し/重房」の若林家は、猪之吉から大助(1850〜1891/猪之吉の長男)・守蔵(1868〜1942/大助の娘婿)・大八(1879〜1920/大助の長男)・壱次(1879〜1960/守蔵の長男)などと続きましたが、昭和40年前後に廃業して名称「重房」銘は途絶えました。

 「重延」とは、明治時代の後半に上記の若林大八に弟子入りした人でした。



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