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千代鶴延国

(八) 三代目 千代鶴 延國



 千代鶴延國(落合宇一)は明治28年静岡県三島に生まれ、13歳のとき、初代國弘の弟子の宗近の弟子である三島の宗次に弟子入りしました。宗次は当時東海道随一とその名を評された鑿・鉋鍛冶でした。宇一は大正5年海軍に入隊しました。貧しくて小学校も満足に卒業していなかった宇一は、海軍で数学の基礎勉強をすることになり、この経験が後年鍛冶などについて計数的な考察をするようになるのですが、大正9年除隊し鍛冶職に復帰しました。

 大正11年横浜で大工道具問屋涌井商店の商標である久國銘で鉋を鍛ちましたが、評判が芳しくないので、涌井精一の紹介で大正14年千代鶴是秀宅を訪れ、弟子入りを願い出ましたが、大正7年以来弟子を取らないと告げられて断られました。しかし恩義のある涌井精一からの紹介であるので、千代鶴是秀は細工場に降りて鉋造りのすべてを伝授しました。そのお陰で大正15年から宇一の鍛つ久國鉋は評判を得るようになりました。

 昭和6年頃、宇一は涌井商店と販売権利問題で久國銘が使えなくなってしまいました。困った宇一は千代鶴是秀宅に相談に行ったところ、延國銘を授かりました。これ以降は延國銘で鉋を鍛つことになったのです。しかし不況で鉋が売れなくなり、生活のために一時鍛冶職をやめて横須賀の海軍工厰に職を求めました。延國37歳昭和7年の8月のことでした。

 昭和22年11月、千代鶴是秀は目黒本町の延國宅を突然訪れました。戦時中空襲に遭って故郷の三島に疎開していましたが、終戦後まもなく元の住所に戻り、バラックを建てて鍛冶職を再開していたからです。千代鶴是秀が延國の鉋鍛冶としての情熱と技術を見込んで千代鶴三代目を継いでもらいたいと告げるための訪問でした。翌昭和23年の1月、千代鶴是秀や関係者列席の下に延國は正式に名跡である千代鶴銘を三代目として襲名することになりました。このとき千代鶴是秀78歳、延國52歳でした。以後延國は三代目千代鶴延國と銘を鉋に打ちました。そして昭和48年二人の息子に仕事のすべてを譲って隠居し、昭和53年72歳でこの世を去りました。その後、平成4年1月細工場が火事になり、鉋鍛冶を再開することは二度とありませんでした。

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