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(二) 千代鶴 是秀



 千代鶴是秀が明治7年(1874年)に三男として誕生したとき、父は38歳、長男 新は16歳、次男 義次郎は11歳、長女 順は5歳、祖母は71歳でした。この時七代目石堂は55歳、八代目石堂は35歳で、千代鶴是秀が誕生する50日前に八代目石堂の長男の眞勇美(九代目石堂)が誕生していました。そして明治7年というこの年は、刀を身に帯びてはいけないという廃刀令が施行され、刀鍛冶の生活に決定的な影響を与えた年でもありました。刀の需要がなくなってしまったのです。

 初代綱俊が66歳で没したとき二代目綱俊は27歳でした。その後二代目綱俊は長雲斎綱俊と銘を切って明治維新後も刀を鍛えましたが、父と一緒に刀鍛冶をしていた長男の新が段階的な廃刀令によって刀を鍛えることに身が入らなくなり、父のもとを去り、のちに地方で行き倒れて亡くなりました。また次男の義次郎も政治に興味をもって父のもとを去って行きました。やがて二代目綱俊は中風で倒れ、長い闘病生活の後に明治28年11月59歳で世を去りました。このとき千代鶴是秀は22歳で、鍛冶職として自立したばかりでなく、結婚もしたばかりでした。

 明治維新前後から石堂家を支え、長雲斎一門の中核となったのは八代目石堂で廃刀令の2、3年前から近くの農家の求めに応じて鎌や鍬を打ち始めていました。これを野鍛冶または農鍛冶といい、刀匠として上杉家のみならず、幕府の御用刀鍛冶を勤め、万国博覧会に選ばれて刀を出品した八代目石堂にとって内心忸怩たるものがありましたが、生活のために致し方ないと求めに応じていました。やがて評判が広まり、鉋や鑿なども鍛つようになりましたが、請われても決して銘を切ることはありませんでした。この頃の鉋や鑿などの大工道具鍛冶として、後世に名を残す國弘・義廣一門や重勝などの達人たちがいました。

 明治17年6月4日、加藤廣こと千代鶴是秀は11歳のとき、母キクに連れられて鍛冶職として入門するために北新門前町の石堂是一宅を訪れました。七代目石堂63歳、八代目石堂42歳でした。そして、七代目に師事し、八代目に技術の指導を受けることになったのです。この二人の石堂から「名を恥ずかしめぬ鍛冶職になるという以上、決して金銭を頭に置いてはならぬこと。そして常に修業を怠らぬこと。」を言い渡されました。この言葉を千代鶴是秀は忠実に生涯守り続けました。入門した時には、父の二代目綱俊はすでに中風を病んで半身不随でした。

 明治24年10月、石堂家に突然の不幸が訪れます。八代目石堂がチフスに感染して49歳で急死しました。そして1ヶ月後、今度は気力を失った七代目石堂が後を追うように亡くなりました。70歳でした。このとき千代鶴是秀は18歳でした。

 19歳になった時、鍛冶銘を名のることになり、通常は師匠の名の一字を上に自分の名を下に付けるのですが、そうすると是廣になり、國弘・義廣一門に間違われやすいので辞めにし、七代目石堂是一の「是」と八代目石堂是一が秀一とも名のっていたのでその「秀」を戴いて、「是秀」と名のることにしました。また、江戸城を築いた太田道灌が鶴が三羽空に舞っているのを見て、千代田城とつけた故事を思い出し、千代も鶴も大変おめでたい「千代鶴」にしようとして名のったとか、またあるとき皇居の二重橋まで歩いて行くと、たまたま鶴が空に舞うのを目撃して「千代鶴」と名のることになったとの言い伝えもあります。しかしどれが定かであるのか分かりませんが、当時としては大変珍しい鍛冶銘として「千代鶴是秀」と名のることになったのです。

 そして、従兄の九代目石堂秀一と一緒に若い二人は、大工道具鍛冶の達人として知られた先人たちの作品を研究しながら研鑽に勤めました。明治27年に八代目石堂の四女 信と結婚しました。是秀21歳、信19歳でした。そして、一男三女をもうけるのです。

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