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(三) 昭和7年の東京における鉋の値段



T 「重友」の鉋


 堤章著「会津の刃物鍛冶」によると、「重友」とは会津の刃物鍛冶で、本名を斎藤強と言い、初代「重利」の弟で、兄同様に初代「重正」の弟子でした。主に下駄屋刃物を作っていましたが、鉋も鍛っていました。「重友」は昭和7年9月に38歳の若さで病没しています。

 この「重友」の鉋は、寸6で1円、寸8で1円10銭でした。



U 「本銘國弘」の鉋


 「國弘」は江戸時代の幕末から続く名門の鉋鍛冶でしたが、2代目「國弘」(田中國吉)が大正7年に69歳で亡くなっています。昭和7年は3代目「國弘」(田中弘治)が鉋を鍛っていましたので、「本銘國弘」鉋は、3代目「國弘」が鍛った鉋です。
國弘2

國弘 刻印1 3代目「國弘」は大正13年関東大震災に遭い、下町の牡丹町から世田谷の上馬に移って鉋を鍛っていましたが、昭和20年に59歳で亡くなっています。その後3代目の息子が4代目「國弘」となり、同地で鉋を鍛ちましたが、しばらくして廃業しました。(注:詳しくは当店のホームページに記載した「千代鶴是秀の系譜 (十)近代大工道具鍛冶の始祖 國弘と義廣」をご覧下さい。)

國弘 刻印2

 この3代目「國弘」の鉋は、寸6が1円50銭、寸8が1円60銭、2寸が2円でした。名門鉋鍛冶としては、評価が低くなっています。多分鉋鍛冶の技倆が落ちていたのでしょう。



V 「廣貞」の鉋


 「廣貞」は、土田一郎著「日本の伝統工具」によると、千代鶴是秀や石堂秀一に負けない切れ味の鉋を鍛った道具鍛冶と評され、「はじめて廣貞の鉋を見た千代鶴是秀が、その火造りの的確さに背筋を冷たくした」と言われた名工でした。

 この「廣貞」は、新潟三条から上京した長谷川貞次のことを言い、大正から昭和の初期にかけて東京で活躍した道具鍛冶でした。「廣貞」鉋は値段が安くてよく切れるので、人気の高い鉋でした。

 「廣貞」が亡くなった後、新潟で別の鉋鍛冶によって「廣貞」銘で鉋が鍛たれましたが、今日出回っている「廣貞」銘の鉋は、この別の道具鍛冶によって鍛たれたものが多いようです。昭和7年と言うと、長谷川貞次がまだ存命中なので、本物の「廣貞」銘に間違いありません。

 この「廣貞」鉋は、寸6が1円70銭、寸8が1円80銭、2寸が2円30銭でした。



W 「左久弘」の鉋


 江戸刃物鍛冶の伝統を受け継ぐ「左久弘」は、昭和7年と言うと2代目「左久弘」の時代でした。2代目「左久弘」は本名を柏木政太郎と言い、当時東京の大工道具業界では鑿の「左久弘」と高く評価され、優れた刃物道具を鍛っていました。

 特に穴掘り大工の使う穴屋鑿造りは、他の鑿鍛冶の追随を許しませんでした。東京の鑿鍛冶組合の会長も努めた人でした。(注:詳しくは当店のホームページに記載した「東京鑿鍛冶の系譜 (一)江戸刃物鍛冶の系統」をご覧下さい。)

 この2代目「左久弘」の鍛った鉋は、寸6で2円20銭、寸8で2円50銭、2寸が3円50銭でした。



X 「本銘石堂」の鉋


 「本銘石堂」とカタログに記載されている鉋は、残念なことに石堂秀一の鉋ではありません。10代目石堂輝秀(菊池清一)の鉋です。

 9代目「石堂秀一」は大正12年に養嗣子「秀作」をなくして落胆し、大正14年からまったく鍛冶仕事をしていません。そして、大正の終わりに脳溢血で倒れ、昭和の始めに千代鶴是秀家に世話になり、昭和6年に57歳でこの世を去っていたからです。石堂秀一が倒れてから菊池清一が昭和4年に独立するまでの石堂秀一作と伝えられたものは、すべて弟子の菊池清一が代作しました。

 昭和7年と言うと、菊池清一が昭和4年に輝秀銘を授けられて独立し、ほどなく10代目「石堂輝秀」となり、鉋を鍛っていた時期でした。この時の年齢は37歳でした。(注:詳しくは当店ホームページ記載の「千代鶴是秀の系譜 (四)9代目石堂秀一と3人の弟子たち」をご覧下さい。)

 「本銘石堂」の鉋は、寸6で2円90銭、寸8が3円、2寸が3円50銭でした。



Y 「運壽太郎」の鉋


 「運壽太郎」銘の鉋は、千代鶴2世太郎の鍛ったものです。千代鶴是秀の長男として明治40年に生まれ、昭和7年は太郎が27歳の時でした。

 「運壽」は千代鶴是秀の親戚である名門刀匠石堂家の由緒ある累代の銘でした。当時9代目石堂秀一が千代鶴家に病臥していましたので、その銘を太郎に継がせ、名工石堂家の縁者として大工道具業界に明らかにしようとしたとも伝えられています。太郎は、昭和5年から「運壽」銘の鉋を鍛ち始め、天才的な技倆で高い評判を得ることになりました。

 しかし、この後に千代鶴家に思わぬ悲しみが訪れることになります。彫塑の勉強と鍛冶職との葛藤に苦悩した太郎が、香取屋カタログにその名が記載された翌年の昭和8年1月に伊豆大島の三原山火口に消息を絶つことになるからです。(注:詳しくは当店ホームページ記載の「千代鶴是秀の系譜 (七) 2代目千代鶴太郎」をご覧下さい。)

 千代鶴2世太郎の鍛った「運壽太郎」の鉋は、寸6が5円、寸8が5円50銭、2寸が7円で、他の道具鍛冶よりも格段高い値段で、当時の太郎の道具鍛冶としての評価を知ることができます。



Z 「千代鶴藤四郎」の鉋

千代鶴是秀 作 「藤四郎」

 「千代鶴藤四郎」銘は、言わずと知れた「千代鶴是秀」の鍛った鉋で、特別に注文されたもの以外は、当時「藤四郎」銘と「是秀」銘で鉋を鍛って世に出していました。「千代鶴是秀」は相変わらず寡作でした。この時、「千代鶴是秀」は59歳でした。

 昭和7年の頃は、「千代鶴太郎」と一緒に鉋を鍛ち、その成長を楽しみにしていた時期でもありました。(注:詳しくは当店ホームページ記載の「千代鶴是秀の系譜」「千代鶴是秀/加藤家の系譜」「千代鶴是秀と書」をご覧下さい。)

 この時期の「千代鶴藤四郎」銘は寸6が8円50銭、寸8が9円、2寸が10円でした。このカタログには記載されていませんが、もう一つの「是秀」銘の鉋は、当時寸8が10円以上もしたと伝えられています。

 当時は一人前と評された大工一日の手間賃が2円乃至1円80銭位の時代でしたから、なかなか手に入れ難い大変高価な値段でした。それ故に、以前から「千代鶴是秀」の銘の鉋は、大工職の人達から走]の眼差しを持って、「千代鶴は神棚に飾る神棚道具だ」とも言われていました。



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