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(一) 二枚刃鉋の出現時期について



 今まで裏金の付いた2枚刃鉋の登場を、土田一郎著「日本の伝統工具」(昭和64年)の中では、明治20年代後半であると書かれています。吉川金次著「斧・鑿・鉋」(昭和59年)の中では、明治末期から大正初期・中期にかけて出現・普及したと書かれています。

また、鉋鍛冶の碓氷健吾ホームページの中では、「明治37年後半、逆目の立つのを防ぐため、鉋刃に併せて裏金を装置した。普及は遅れて関東大震災後の建築ブームで一気にのびた。」と書かれています。


 さらに、三木の山本鉋製作所のホームページに記載されている「三木の鉋鍛冶の歴史」の中では、「明治38年頃2枚刃鉋が使われ始める。」と書かれています。


 竹中大工道具館のホームページには、「明治時代の後半、逆目を防ぐための押え刃を入れた2枚刃鉋(合せ鉋)が考案され、一般的になった。」と紹介されています。


 このように出現時期については、バラバラに述べられていますが、広く解釈して一致点を見つけてみると、「明治時代の後半以降」と言うことができるでしょう。2枚刃鉋の出現は、果たしてそうなのでしょうか。


 ヤフー・ウエブ検索結果の「かんなの歴史」に次のようなことが書かれているのを見つけました。要約すると、明治時代になると、西洋の文化や技術が様々な日本の道具に影響を与えました。日本の鉋もそうで、押え刃の付いた西洋鉋を真似て、1枚刃から2枚刃になりました。


 この説が気になり、インターネットで「明治初期 工作教科書」で検索したところ、明治6年文部省編「小學畫學書」にアクセスしました。そこで、その本の中を調べたところ、日本の鉋ではなく、押して使う2枚刃の西洋鉋の絵が載っているのを発見しました。明治6年までには、すでに2枚刃の西洋鉋が渡来していたのです。


 さらに、以前に読んだ日本建築学会公開の船曳悦子論文「両刃鋸の出現時期について」に記載された道具図を思い出し、再びインターネットでアクセスしてその論文の第3図を見ました。第3図には、チョーナ、頭部V型両刃鋸、片刃鋸、刃が垂直に入れられた台鉋と斜めに入れられた台鉋の絵(2丁とも日本の台鉋です)があったからです。


しかも、その図には、「モースの日記 明治10年9月8日 東京」と出典が記されていました。モースとは、明治時代初期の東京大学の動物学・進化論教授のエドワード・S・モースのことで、大森貝塚を発見した人です。


 第3図に描かれた2丁の台鉋の絵をあらためて見ますと、2丁とも裏金らしきものがありました。そこで、パソコン画面を拡大してよく確認すると、やはり裏金が付いていました。わたしが、もしかしたら、と想像した通りでした。これによって2枚刃の台鉋が、明治10年に東京において、すでに存在していたことが証明されました。両刃鋸の出現時期を述べた船曳悦子論文掲載の図から、2枚刃鉋の出現時期を確定できるとは意外な展開でした。


 以上のことから、裏金付きの2枚刃鉋は、明治時代のごく初期において東京に出現し、それは押え刃の付いた西洋鉋の影響を受けて1枚刃から2枚刃になった、と言っていいでしょう。

しかし、この鉋が広く普及するには年数が掛かりました。その理由は、大工職などに「2枚刃鉋は逆目を抑えられるが、1枚刃鉋で削る方が、2枚刃鉋で削るよりも艶がよい。」とか、また「桶屋は2枚刃鉋は使えない。削り肌が汚い。」とか、更に新しい道具に対する年配大工職の抵抗感などという意識があったからでしょう。


ですが、2枚刃鉋は次第に東京から地方へ伝わり、明治時代の後半から逆目や節のある木材が建築などに多く使用されるようになり、その結果2枚刃鉋の使い良さが広く認められ、それぞれの地域で一気に普及し始めることになりました。このように2枚刃鉋の出現と普及を解釈すると、バラバラに言われてきた理由も理解できます。いままで出現と普及の時期を混同していたのです。




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