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《千代鶴運壽鉋の判定方法》



はじめに



 日本において4世紀の古墳から鋸が出土していますが、これらは細工用の小型横挽き鋸で、縦挽き鋸が使われ始めたのは、吉川金次著「ものと人間の文化史/鋸」によると、6世紀の古墳から縦挽き鋸歯であるガガリ目の小型鋸が出土していると指摘していますので、この頃から使い出されたことがわかります。    

この縦挽き鋸は形状の大きさからして、建築工匠たちが使うものではなく、細工用の鋸で、謂わば古代縦挽き鋸と言えましょう(注1)。


(注1) 吉川金次氏は、6世紀の古墳や8世紀の住居址から出土した鋸が縦挽き鋸歯であるとし、文献や絵画には発見できないが、初めは小型であった縦挽き鋸が平安時代から鎌倉時代を通じて大型の縦挽き鋸として発達して使われて来たと、寺社に残された鋸や鋸の挽き痕から主張し、日本には室町時代まで縦挽き鋸はなかったという通説に疑問を投げかけています。(吉川金次著の前掲書)

その後、出土する鋸は、ほとんどが箱屋目の横挽き専用鋸です。山から伐り出した原木を板材にするには、クサビを原木に打ち込んで、裂き割って板にしていました。そのために、当時、板は大変貴重なものだったのです。


やがて、15世紀の室町時代の遺跡から、鋸歯が縦挽き横挽き兼用のイバラ目になった大型の木の葉半切型の鋸が出土します。鋸身の長さが60p余りある大型鋸です。


さらに、室町時代中頃に、中国大陸から製材用の大鋸(おが)と呼ばれる二人挽き用の押し引き兼用のガガリ目である大型の縦挽き専用鋸が日本に伝来します(注2)。鋸身の長さ約2m、鋸身幅約9pの鋸です。この大鋸は、鋸身の両端を長さ約80pの木材を柄とし、鋸が動かないように、鋸身の長さと同じ竹材と太い紐を両端の柄に固定した形態です。


(注2) これに対して、鎌倉時代後期に描かれた兵庫県にある極楽寺が所蔵している地獄を描いた「六道絵」の中に大鋸らしき鋸があることから、大鋸が大陸からの伝来したのは、もしかすると約100年遡る可能性があるとの指摘もあります。しかし、この大鋸は縦挽きではなく、横挽き鋸との指摘もあります。また、この絵の作者がまだ日本で使われていない大鋸を何らかの理由で知り、描いた可能性もあるともされます。(土屋安見・石村美具論文「六道絵の大鋸」竹中大工道具館研究紀要 第3号)。

大鋸は、当初舶来したものが使われて、大変高価であったために製材に従事した杣師や木挽き職の個人所有ではなく、寺社などの所有でした。


 安土桃山時代の終盤頃になると、一人挽き用の縦挽き専用大型鋸である前挽鋸が誕生します。鋸歯は、当然ガガリ目ですが、鋸先から柄の方に向かって次第に鋸歯は小さくなります。

また、前挽鋸の形状を歴史的に調査した星野欣也・植村昌子論文「近世・近代における前挽鋸の変遷について」によると、誕生した初期のものは幅が狭く、峯と鋸歯部分と平行で、鋸先は四角になり、柄を取り付けるコミの部分がほぼ直角に曲がり、一般的には鋸の大きさは長さ60p、鋸身幅33センチほどでした。


 その後、時代を下って行くほど峯が曲線状となり、鋸身幅が広く、鋸先は四角から斜めの形状になり、鋸首が長くなり、コミの部分が直角からゆるやかな角度になると指摘されます。

 室町時代の中頃である16世紀の初めに千草鋼や出羽鋼と言われた商業用和鋼が作られるようになります。素材としては、その出羽鋼が使われましたが、鋼材としては品質が良いものでなく、製造に出来不出来が現れる難儀な鋼材でした。明治後期には、輸入された洋鋼を使って製造されていました。


前挽鋸は大型な鋸のため、重さは3〜5sほどになり、この重量を利用して切りました。この方法は、木材を立て掛けて挽くので「立て返し挽き」といいましたが、大正時代の初めに関西地方から東京の木場などに伝わった「すくい挽き」、別名「大阪挽き」という木をねかせたまま横向きに挽く方法もありました。この「すくい挽き」は中腰にならず、椅子に座って挽くことができたので、長時間の作業が楽でした。


埼玉県川越の鋸鍛冶名工の2代目中屋辺作が東京深川木場からの特注で製造した前挽鋸は、長さ約2.27m・重さ約12sもありました。したがって、前挽鋸を使う木挽き職にとって非常に重労働で体力を消耗するために、人の3倍も食べていました。


 前挽鋸の焼入れ、焼き戻しは、大きな形状なために直接焼入れ・直接焼き戻しはできず、真っ赤に焼いた焼き鋏で鋸歯だけを掴んで行う間接焼入れ・間接焼き戻し法でした。

 この前挽鋸は、大工職や樵職などが使う鋸とは違い、大型鋸であるために製造技術的な困難さと当時貴重であった鉄と鋼、それに多くの労力が必要で、10名近い人たちがいなければ造れませんでした。明治時代になり、洋鋼が輸入されると、和鋼の時とは違い、3、4人でも製造できるようになったと指摘されます(吉川金次著「ものと人間の文化史/鋸」。


 したがって、前挽鋸の価格は、江戸時代の後半に三木鋸鍛冶が三木や大阪や江戸の問屋に渡す金額が2.3両から2.5両(桑田優著の前掲書のなかの資料より筆者が計算)で、1両の価値が時代によって金の含有量から違いますが、一つの目安として江戸時代平均が現在の金額にして6.6万円との計算もありますので、小売価格としては約3倍位の価格になり、かなり高額な鋸であったと推察できます。

 私はこの前挽鋸について全国的に史的考察をしてみようと思っていましたが、なかなか資料が集まらず、書き上げることはできませんでしたが、埼玉県川越の鋸鍛冶5代目中屋瀧次郎氏(伊藤守)より平成27年5月に開催された滋賀県甲賀市教育委員会主催の「甲賀前挽鋸」国指定記念講演会に参加したときの講演資料を送って頂き、いままでよく知らなかった甲賀における前挽鋸製造や鋸鍛冶たちの概要、そして近世における京都前挽鋸鍛冶職人株仲間のメンバーなどを知ることができました。

前挽鋸は杣師や木挽き職が使い、大工職の使う道具ではありませんが、鋸と言うことで一致点もありますので、近世において発達したこの前挽鋸を全国的に取り上げて、どのような産地で、どのような鋸鍛冶職人によって製造されていたのか、そしてその後明治時代になり、どうなっていったのかを詳しく考察してみましょう。私の知る限りでは、いままでの前挽鋸の研究は産地と鋸鍛冶職人たちを部分的に取り上げているだけで、今回のように全国的に産地や鋸鍛冶職人たちを考察したのは、本邦で初めての試みです。








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